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大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔揚幕社, p.14-15.〕〔天野, p.78-80.〕〔''大村正男''、日本映画データベース、2013年3月14日閲覧。〕〔''大村正雄''、''大村正夫''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月14日閲覧。〕〔''大村正雄''、''大村正夫''、日活データベース、2013年3月14日閲覧。〕。本名早坂 正巳(はやさか まさみ)〔。芸名の表記は大村 正夫、大村 正男と揺れがある〔〔〔。新派の舞台俳優としてキャリアをスタートし、黎明期の日活向島撮影所を支えたスター俳優として知られる〔〔。 == 人物・来歴 == 1878年(明治11年)10月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に生まれる〔。 東京に移り、満18歳を迎える1896年(明治29年)、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区三崎町)にあった、川上音二郎の川上座(のちの改良座、現存せず)で初舞台を踏んだ〔。以降、新派の舞台俳優として、各地の舞台に立った〔。1918年(大正7年)に発行された『花形活動俳優内証話』によれば、東京に来た経緯は、地元の旧制中学校を2年で中途退学して東京に移り、専修学校(現在の専修大学)に入学、その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移ったとされている〔。同書には、佐藤歳三、井上正夫の一座にいたこともあるという記述もある〔。 田村成義の『續々歌舞伎年代記』によれば、1901年(明治34年)1月には改良座の『有喜世御殿』に出演、「執事岩淵猛」を演じたほか、同年2月の同座では『狂美人』の「川口包明」、同年3月の同座では『あたりやおきん』の「支那人阿轅・栗野外交官」、同年8月の同座での『財産の行衛』で「渡邊文吉」、1902年(明治35年)7月、浅草の宮戸座で『新華族』の「井上甚六・番頭久七」、同年8月、改良座にもどって『當り的』で「書生君塚覚」、翌1903年(明治36年)4月、浅草・常盤座での『後のお梅』で「寺男八助」を演じた記録が残っている〔田村, p.890, 895, 899, 915, 950, 955, 980.〕。 1913年(大正2年)、日活向島撮影所に入社して映画俳優となり〔、満35歳となった同年12月に公開された『橘花子』(監督小口忠)に主演している〔〔〔。1919年(大正8年)、リメイク版『復活』(田中栄三)や、『恋の津満子』(監督小口忠)に出演後、同社を退社し、舞台に戻る〔〔〔〔。 1922年(大正11年)、国際活映(国活)に入社、かつて日活向島撮影所にいた細山喜代松の監督作に出演する〔〔〔。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、当時、大村は東京府北豊島郡尾久村大字上尾久(現在の東京都荒川区西尾久)に住み、身長は5尺4寸2分(約164.2センチメートル)、体重16貫200匁(約60.8キログラム)、喫煙習慣はなく、登山と政治を趣味とした〔。同年4月には国活が経営危機に陥り、前年に日活向島撮影所から国活に移籍していた衣笠貞之助、島田嘉七、宮島健一らとともに、京都に牧野省三が設立したマキノ映画製作所へ移籍、おなじく日活向島出身の桝本清が監督した『再生』に出演し、同作は同年7月3日に公開されたが、同作以降の映画出演歴が不明である〔〔。したがって、満45歳以降の消息は不明である。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大村正雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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