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大栗 裕(おおぐり ひろし、1918年7月9日 - 1982年4月18日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。 == 人物・来歴 == 大阪市船場の小間物問屋に生まれる。大阪市立天王寺商業学校(現・大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)時代からホルンを演奏しながら独学で作曲を学ぶ。1941年、当時の東京交響楽団(現在の同名のオーケストラとは別)のホルン奏者となる。ここで伊福部昭、早坂文雄の作品初演に携わり創作活動に大きな影響を受ける。1946年日本交響楽団(後のNHK交響楽団)に加わり、さらに1950年朝比奈隆の招きで関西交響楽団(後に大阪フィルハーモニー交響楽団と改称)に入団。 1955年、オペラ『赤い陣羽織』で作曲家として出る。同年に作曲した『大阪俗謡による幻想曲』がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏され、世界に知られるところとなる。1966年に楽団を退団し、その後作曲活動に専念した。また、京都女子大学教授、大阪音楽大学講師を務めた。だが1981年夏に体調を崩して入院、翌1982年4月18日に肝臓がんのため63歳で死去した。 その作風は、故郷大阪の泥臭い雑然さを、幼い時から親しんだわらべ唄、声明、義太夫、祭囃子を加味し、巧みなオーケストレーションで表現したものであり、その作風からしばしば「東洋のバルトーク」と称されている(他にも、「浪速のバルトーク」「日本のハチャトゥリアン」と呼ばれる場合もある)。作品のスコアの大部分は大阪フィルハーモニー交響楽団内の「大栗文庫」に収められている。 吹奏楽出身である事も関係して、吹奏楽のための作品を旺盛に残している。とりわけ、出世作「大阪俗謡による幻想曲」の吹奏楽編曲版や下記の全日本吹奏楽コンクール課題曲は今日でも全国の吹奏楽団に愛奏され、日本人作曲家の中でも、吹奏楽関係者で知らぬ人はいないほどの知名度を誇っている。また、『2000人の吹奏楽』のフィナーレではしばしば指揮を務めた。 また関西学院大学マンドリンクラブと京都女子大学マンドリンオーケストラの技術顧問であったことから、マンドリンオーケストラのための作品も多く作曲している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大栗裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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