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大橋智干 : ウィキペディア日本語版
大橋智干[おおはし ともひさ]

大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没年不明〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、111ページ〕)は、山口県出身のプロ野球選手
== 経歴 ==
下関市立下関商業学校(現・下関市立下関商業高等学校)在学中は、甲子園に4度出場(春2回〈1938年1939年〉、夏2回〈1938年1939年〉)。そのうち1939年夏の大会では、正捕手としてチームの準優勝に貢献した〔1939年夏(熱球の記憶 プロに進んだ甲子園球児達) 〕。当時のチームメイトに、長富政武(のち大洋),諏訪裕良(のちに高野裕良に改名。巨人金星・大映→大洋)がいた〔。
3月15日に巨人に入団〔東京巨人軍登録選手(1940年) 野球回廊のHP〕。しかし正捕手の吉原正喜や第2捕手の楠安夫の壁は厚く、僅か5試合の出場に留まり、同年末に現役引退した。引退後の消息は不明。
内海五十雄の後を継いで、巨人軍の背番号26を付けた選手である〔背番号変遷(20番台) |読売巨人軍公式サイト - 東京読売巨人軍。尚、現在は五十雄の孫でもある内海哲也が着用している。〕。また出場機会は殆ど無かったが、沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンの間に座ってミーティングに参加している写真が現存している〔沢村栄治の集合写真(沢村栄治記念館) ※「昭和15年 ミーティングにて 前列左から4人目」という写真である。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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