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大橋純子と美乃家セントラルステイション : ウィキペディア日本語版 | 美乃家セントラル・ステイション[みのや-]
美乃家セントラル・ステイション(みのや-、1976年 結成 - 1980年 解散)は、日本のポップスのバンドである。ヴォーカリスト・大橋純子のバックバンドとして結成され、佐藤健や土屋昌巳が在籍したことで知られる。「美乃屋」表記は誤り。 == 略歴・概要 == 1973年(昭和48年)当時、ヤマハ音楽振興会のポプコンに関する業務を行なう部署は「L.M制作室」といい、同室長は、編曲者から作曲家となった萩田光雄で、そこに船山基紀や佐藤健が在籍していた。そこで佐藤は、まだ20歳の大橋と出会った〔大橋純子公式サイトの大橋自筆記事「Junkoの自伝的プロフィール 」の記述を参照。〕。やがて1974年6月、22歳の大橋はシンガーとしてデビューする。 1976年(昭和51年)、佐藤は、大橋のバックバンドとして美乃家セントラル・ステイションを結成する。第一期メンバーは、佐藤のほか、見砂和照、小田健二郎、土屋昌巳、滝本大助、福田郁次郎、高杉登である。 美乃家は、大橋とともに同年の各地の大学の学園祭に招聘され、大橋が「学園祭の女王」と呼ばれるのに貢献した〔大橋純子公式サイトの大橋自筆記事「アルバムレビュー日本フォノグラム編 」の記述を参照。〕。翌1977年4月発売の大橋のサード・アルバム『RAINBOW』以降、「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」とクレジットされる〔。 1979年(昭和54年)、第二期美乃家がスタートする。見砂・土屋らが脱退した後のメンバーは、佐藤、小田のほか、土屋潔、マーティン・K・ブレイシー、六川正彦、後藤輝夫であった。同メンバーで1980年(昭和55年)4月リリースのアルバム『HOT LIFE』を収録し、やがて同年内に解散した〔。1981年(昭和56年)、解散後の大橋のアルバム『Tea For Tears』のアレンジは、萩田が行なった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「美乃家セントラル・ステイション」の詳細全文を読む
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