|
弟橘媛(おとたちばなひめ)は、日本武尊(倭建命)の妃。『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。 == 記紀の弟橘媛(弟橘比売命) == 『日本書紀』によれば、穂積氏忍山宿禰の娘。日本武尊との間に稚武彦王を儲ける〔『日本書紀(上)全現代語訳』 174ページ〕。 千葉県茂原市本納には、玉浦に渡った日本武尊が、橘の木を媛の墓標としたことを由来としている橘樹神社がある。この神社は延喜式内社で、上総五社の一つであり、上総国二宮であり、唯一の正史に記された弟橘媛を祀る神社である。この神社の由緒には「弟橘媛が尊に申し上げたことは、君公の佩せ給へる御劔は、むかし素戔嗚尊大蛇の尾より切出したまふ宝劔なれば、悪神龍御船を覆し、宝劔を奪んとして起こる所の暴風ならん、吾宝劔と君とにかわり、海中に入りて悪龍を退治し、君公と宝劔を安泰ならしめ、又天下後世の人をして渡海風波の難を救ひ、永々海中の守護神となるべし」とあり、神社は海上の守護神と仰がれている。東征の軍を率いて房総半島に渡った日本武尊のその後の行軍の道すじは、海路北上したとも、陸路香取海に出たともされるが、陸路伝いに日本武尊の伝説と尊と弟橘媛を祭神とする神社が多い〔『東京湾史』 80ページ〕。 『古事記』は、焼津で相武国造にだまされ火攻めにあい、倭比売命より賜った草薙剣によって難を逃れた倭建命が走水海に至った時、海は荒れ狂い先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘比売命は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったとする〔『古事記(中)全訳注』 150ページ〕。 よんだ和歌は「相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。相武国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている『古事記』にのみ存在する歌である。倭建命に対する感謝の気持ちがよく表れている。倭建命の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。また、彼女が持っていた櫛は、7日後、海岸に流れ着いた。その櫛を取って御陵を作り治めたのが橘樹神社の由来ともされている。 弟橘媛を忘れられない日本武尊は、『日本書紀』では碓日の嶺、『古事記』によれば足柄の坂本で、「吾妻はや」と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる「地名起源説話」である〔『日本書紀(上)全現代語訳』 169ページ〕〔『古事記(中)全訳注』 153ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「弟橘媛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|