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大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末からおこった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことをさす。広義には第2次西園寺内閣の倒壊から第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる〔大久保(1964)〕。 == 狭義の大正政変 == === 概略 === 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」〔1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会をおし、自分はふたたび政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだにむすんだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。〕のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御(死去)直後の1912年(大正元年)12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難〔日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。〕から緊縮財政の方針を採る。また陸海軍は、帝国国防方針により、当面は陸軍が2個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻を要求していた〔『詳説日本史改訂版』、山川出版社、2002年、p294〕。1912年(大正元年)11月30日の閣議で、陸軍大臣上原勇作は増師を要求した。閣議の結果、増師計画が採用されず、それに対し、上原勇作は帷幄上奏権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出した。1900年(明治33年)には山縣有朋は軍部大臣現役武官制を成立させていたため、陸軍は後任を送らず、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となった。 元老会議は後継首相に桂太郎を指名したが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」〔1885年(明治18年)に創設された内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)との別を明らかにし、さらに天皇を補佐する内大臣をおいていた。〕を乱すものとして非難の声があがった。また、財政に関心の深い財界からも軍閥の横暴に批判の声が高まり、さらに陸軍(山縣閥)による非立憲的な倒閣の策動や藩閥政治家の再出馬に憤る声が広汎に広がって、憲政擁護運動(第1次護憲運動)がはじまった。12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社〔1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ。〕有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。12月21日、西園寺内閣が正式に総辞職して第3次桂太郎内閣が発足した。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。 翌年1月、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じた(優詔政策)〔イギリスのジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党と保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうもので、イギリスから帰国した直後の加藤高明が提案した。〕。 この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍した。2月5日、再開された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となった。このときの「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」のフレーズで知られる尾崎行雄の桂首相弾劾演説は有名である。 2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえた〔このとき川上親晴警視総監は、騎馬憲兵25騎を民衆の中に投じた。〕。桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告〔大岡は桂に対し「議長としてでなく長州人として申し上げる」と述べたと伝わる。〕により内閣総辞職を決意して、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じた。議会停会に憤激した民衆は警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。つづいて同様の騒擾は大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火した。 2月20日、桂内閣は発足からわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大正政変」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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