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毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸〔現在の広島県西部。〕の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家〔毛利家文書第413号、嫡男・隆元宛の三子教訓状追伸文にて、元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と自らの信条を書き綴っている。〕として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。 == 生涯 == === 家督相続 === 明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。 明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。〔毛利家文書第420号、永禄元年(1558年)に嫡男・隆元に送った手紙の中で「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄(興元)京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご(孤児)に罷り成り」「多治比を我々に弘元お譲り候へども、井上中務丞(元盛)渡し候わで押領候・・・」と述懐している。〕松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可を貰って松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。 永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する〔当初は幸松丸の外戚の高橋氏の影響力が強く、実際に毛利本家の実権を握っていたのは高橋久光であったが、久光は備後の三吉氏との戦いで戦死し、その後は元就が後見役として家中を主導した。元就の長女はわずか2歳で高橋氏の人質となっていたと伝わる。〕。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。 安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。 詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われているが、戦国武将としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方である。 甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、吉田郡山城に入城した〔この家督相続について、元就は初め辞退したという話が元就自身の日記に記されているが、この日記は連署状を受け取った日時が現存する書状と違い、また日記といってもこの時の3日分しか存在しない史料であるため、疑問がもたれている。また、当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んだというが、これも他の史料では確認できない(山室恭子『群雄創世紀』)。〕。 元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。ただし、元綱は異母弟とはいえ兄弟仲は良かったと伝わっており、元綱は尼子氏の計略に乗ったことを恥じて憤死したという説もある。 元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれており、この事件は元就の心に深く残ったらしい。また、元綱を亡くした寂しさから、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。 なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。なお。この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利元就」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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