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大江匡房[おおえ の まさふさ]
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。 == 経歴 == 大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。正房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている〔戸川点「大江匡房」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 51ページ〕。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞・続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた。 その後は昇進が止まり、一時隠遁しようとするが、藤原経任の諫止により思いとどまり、治暦3年(1067年)、東宮・尊仁親王の学士に任じられる。学士を務める中で尊仁親王の信頼を得て、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると蔵人に任ぜられる。翌延久元年(1069年)、左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。 延久4年12月(1073年1月)の白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のち堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。また、弁官にて累進し応徳元年(1084年)に左大弁に任ぜられ、応徳3年(1086年)に従三位に昇叙され公卿に列す。この間の承暦2年(1078年)、自らの邸宅に江家文庫を設置している。 堀河朝に入ると、寛治2年(1088年)に正三位・参議、寛治8年(1094年)に従二位・権中納言と順調に昇進する。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。長治3年(1106年)、権中納言を辞して、再度大宰権帥に任ぜられる。鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江匡房」の詳細全文を読む
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