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大江 卓(おおえ たく、弘化4年9月25日(1847年11月2日) - 大正10年(1921年)9月21日)は日本の政治家・実業家。土佐国幡多郡柏島(現在の大月町)出身。幼名は秀馬、斎原治一郎。後藤象二郎は義父にあたり、妻は後藤象二郎次女、小苗。 == 生涯 == 長崎に赴いた後、京に出て慶応3年(1867年)土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。このとき坂本龍馬、中岡慎太郎、陸奥宗光らと知り合う。翌明治元年(1868年)、神戸外国事務所にて事件処理にあたる。 高知出身ゆえに新政府内で冷遇されていたが、明治5年(1872年)に当時神奈川県令(知事)を務めていた陸奥宗光が、外交知識の豊富な大江を県参事に引き抜いた。大江は陸奥の片腕となり、明治になって間もない神奈川や横浜の街の土台づくりに奔走し、近代日本を維持するための警察制度を作り上げた。買われた外交知識も遺憾なく発揮し、「マリア・ルス号事件」発生時に事態を重く見た外務卿副島種臣から権令(県副知事)に抜擢され、清国人奴隷232人を、自ら裁判長となって解放した。大江の尽力に対して、在日華僑の人々より感謝の気持ちを託して大旆(たいはい)が贈られた(神奈川県立公文書館所蔵)。 明治10年(1877年)、土佐挙兵計画に参画、禁固10年の決により岩手監獄へ収監される(立志社の獄)。入獄中に、妻の小苗と引き離され、子供は福沢諭吉が引き取って育てた。明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙において衆議院議員選挙当選、立憲自由党に属し、予算委員長に就任。「民力休養(減税)、政費節減(予算削減)」を掲げる民党の意見を尊重し、軍艦建造費など八百万円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させた。次の選挙で落選した後は、政界から実業界入りする。 明治25年(1892年)1月に、東京株式取引所頭取に就任。翌年取引所法の成立で呼称が理事長となり、初代東株理事長となる。明治30年(1897年)に、後ろ盾であった後藤象二郎を失った翌年の「北炭株買占め事件」に対する加担容疑を理由に、辞任。 明治32年(1899年)、朝鮮京釜鉄道建設に関わる。 大正2年(1913年)、本郷全福寺において、得度を行い僧となる。大江天也と号す。 大正3年(1914年)、帝国公道会を創立。以後も部落解放運動を中心に活動し水平社運動にも深く関わる。 大正9年(1920年)、県令時に援助をしたフェリス和英女学校(現フェリス女学院中学校・高等学校)の開校五十年記念式典にて演説。 大正10年(1921年)、胃癌のため死去。死の直前に従五位に任ぜられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江卓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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