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大河内一男 : ウィキペディア日本語版
大河内一男[おおこうち かずお]

大河内 一男(おおこうち かずお、1905年1月29日 - 1984年8月9日)は、日本の経済学者。専攻は社会政策東京大学総長専修大学学長。東京大学名誉教授、日本学士院会員
松平信綱の末裔で、父は講談児童向け読み物の作者であり、日本の速記史上の重要人物でもある大河内翠山。長男に経済史家の大河内暁男がいる。
== 略歴・人物 ==
東京出身。三高東京帝国大学卒業。河合栄治郎に師事。東京帝大経済学部助手となる。1939年の平賀粛学においては、いったん辞表を提出したものの、大河内とともに河合門下の三羽烏と呼ばれた木村健康安井琢磨と師に改めて相談をしたところ、あくまで辞表を撤回するなとする師のメッセージに、それまで持っていた師のイメージが変わってしまい、師と袂を分かつ決意をするとともに、平賀総長の懇請を受けていたこともあり、経済学部に残留を決意、辞表を撤回する。戦時期においては風早八十二とともに生産力理論を提唱した。
1946年-1949年、1946年4月専修大学経済学部長、1947年12月専修大学学長に就任。1949年3月退任。後、学監となる。東京帝国大学経済学部教授との兼任であった。
1951年7月 経済学博士(東京大学)。 論文題目は「独逸社会政策思想史」であった。
1962年-1968年、東京大学総長。在任中の1968年に東大紛争が発生し、1968年11月1日、全学部長、評議員とともに紛争の責任をとって辞任。法学部教授加藤一郎が総長代行となった。
1973年より世界平和アピール七人委員会委員。
1981年4月29日叙勲一等瑞宝章。1984年8月9日死去。叙正三位、賜銀杯一組。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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