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大津 長昌(おおつ ながまさ、生年不詳 - 天正7年3月13日(1579年4月18日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は伝十郎。織田氏当主・織田信長側近として仕えた。諱ははじめ「長治」。 == 生涯 == 尾張国中島郡府中宮の生まれで、信長の馬廻と側近を務めた。妻は丹羽長秀の妹と伝わる。 信長の代表的な側近として、信長の命令により政務を執行した。他の大名や家臣、僧侶やルイス・フロイスなどとの取り次ぎ、南禅寺の代官職などの奉行として、1569年以降、京都を中心に活躍する。戦場では主に検使の役を務めている。また奥州の伊達氏との外交交渉も担当し、天正6年(1578年)に訪問した遠藤基信と対越後上杉氏との戦略の交渉をしている。 天正4年(1576年)5月の石山本願寺攻めでは猪子高就と組んで天王寺砦に派遣され検使を務めた。天正6年(1578年)6月の神吉城攻めの検使として出陣したとの記録がある。荒木村重の反乱後の有岡城攻めで、天正6年(1578年)に荒木の降誘には失敗するものの、高山右近らを内応させることに成功し、摂津高槻城番となったが、翌天正7年(1579年)3月13日に高槻城内で病死した。 享年は不明であるが、まだ青年であったと思われる。前述の正室(丹羽長秀妹)は同じく信長の馬廻(黒母衣衆)を務めたのち栄進した蜂屋頼隆と再婚した。 ただし、子孫は少なくとも1825年以降まで続いている。 長昌の死後天正10年の1月15日の爆竹の際に菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定が小姓・馬廻を率いる特別の地位を認められているが、長昌が存命していれば、これに名を連ねたであろう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大津長昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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