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大浦 みずき(おおうら みずき、本名:阪田なつめ。1956年8月29日 - 2009年11月14日)は元宝塚歌劇団花組トップスターで、女優、エッセイスト、歌手。東京都中野区出身。中野区立第八中学校卒業。愛称なつめ、ナーちゃん。公称身長168cm。血液型A型。特技:アルゼンチンタンゴ(歌・ダンス)・ジャズ・社交ダンス。 ==略歴== *小説家阪田寛夫の次女として出生、家族は母と姉(啓子)。 *「幼少よりバレエを習っていたが背が伸びすぎてしまった上、父が大の宝塚ファンだった」ことから中学卒業を機に宝塚音楽学校受験、合格。 *1974年、60期生として宝塚歌劇団に入団、『虞美人』で初舞台。入団時の成績は3番〔小林公一・監修『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日、P.86〕。芸名は父と文芸活動およびキリスト教信仰の同志であった庄野潤三が命名。同期には元月組トップスターの剣幸、元雪組トップ娘役の遥くらら、元専科の磯野千尋(元花組組長)がいる。 *雪組~星組を経て花組へ。ダンスの名手として鳴らし(宝塚の「フレッド・アステア」と評される〔岸香織、「大浦みずきさん:女優:肺がんのため11月14日死去・53歳」『毎日新聞』、2009年12月16日、13版、27面〕)、同期の磯野や朝香じゅん、瀬川佳英、幸和希、安寿ミラ、真矢みきらと共に当時の花組トップ高汐巴を盛り立てた。 *しかし高汐がトップ後期の1987年に膝の半月板損傷・手術により長期休演を余儀なくされた。懸命のリハビリで故障克服、怪我以前よりダンスを磨き舞台復帰。 *1988年 - 1991年まで、ひびき美都を相手役に花組トップスターを務める。「(当時の)宝塚で最も高いプロ意識を持ち」〔宇佐見正(元朝日新聞編集委員、宝塚担当記者)「プロ意識とユーモア(大浦みずきに贈る言葉)」(「宝塚グラフ」1991年11月号、P.40)〕、「ダンスの花組」と呼ばれる一時代を築いた。宝塚時代の代表作は『キス・ミー・ケイト』(1988年トップ就任作)、『会議は踊る』(1989年)、『ベルサイユのばら』(1990年、フェルゼン役)、『ヴェネチアの紋章』(1991年サヨナラ公演作)。 *1989年には歌劇団のニューヨーク公演でメインを張った。 *多くの名シーンを残したが、自身が一番好きだったものは退団後の取材によると、デュエットダンスでは『メモアール・ド・パリ』の「パッシィの館」、男役のダンスは『ショー・アップ・ショー』の「ピーターガン」、歌はオリジナルでは「心の翼」、「この世にただ一つ」、ジャズでは「Night & Day」だった(このうちの多くがサヨナラショーで再現された)〔元花組桜木星子(68期生)がガイドを務めるサイトAll About「宝塚ファン」の記事「大浦みずきさんに聞きました!」(2001年10月16日)より〕。 *宝塚退団後も舞台を中心に女優(主に脇役や男性主役の相手役)として、又ダンス公演でも活躍。また退団後の1992年のニューヨーク公演では海外公演で初の"メインが(現役生徒でなく)歌劇団卒業生"という異例の大役を任ぜられたが、現役時代と遜色ないステージをこなした。私生活では独身を通していた。 *2009年11月14日午前7時、肺癌のため東京都内の病院で死去。享年53。前年より「胸膜炎のため」(所属事務所等の発表)として出演予定の舞台降板し、2010年早々からの仕事復帰を期して療養中のさなか帰らぬ人となった。12月2日のお別れの会では、共演者、OG〔峰さを理、平みち、杜けあき、一路真輝、麻路さき、稔幸、湖月わたるなどの元トップスターも参列した〕、ファンら計約3000名が駆け付けた。 *一周忌の2010年11月に、実姉内藤啓子(父・阪田寛夫の私設秘書のち事務所代表取締役)による書き下ろし回想エッセイ『赤毛のなっちゅん‐宝塚を愛し、舞台に生きた妹・大浦みずきに』(中央公論新社)が上梓された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大浦みずき」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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