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大澤 善助(大沢-、おおさわ ぜんすけ、1854年3月7日(嘉永7年2月9日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は、日本の実業家である〔コトバンクサイト内の記事「大澤善助 」の記述を参照。〕。大沢商会、京都電気鉄道の創立者として知られる〔。幼名は松之助(まつのすけ)、養父を継ぎ清八(せいはち)とも名乗った〔。 == 人物・来歴 == 1854年3月7日(嘉永7年2月9日)、現在の京都府に松之助として生まれる〔。任侠・会津小鉄こと上坂仙吉の親分である同じく任侠の大澤清八(大垣屋清八)の養子となり、大澤松之助となる。のちに養父を継ぎ、大澤清八と名乗り、組の若大将として活躍した。 1877年(明治10年)、23歳のころ、同志社英学校初代校長の新島襄から洗礼を受け、クリスチャンとなる〔。父・清八、長男・徳太郎も受洗、人入れ稼業の組は上坂仙吉に譲った。 1891年(明治24年)、時計および自転車の輸入・製造販売を開始、大沢商会を創立した〔。翌1892年(明治25年)、京都電燈株式会社の代表取締役社長に就任する〔。1894年(明治27年)2月1日、京都電気鉄道を設立して取締役に就任(社長は高木文平)、翌年1895年(明治28年)、日本初の市街電車を開業した〔。1898年(明治31年)5月6日に開業した名古屋電気鉄道にも協力した。 京都府会議員となり、1899年(明治32年)、同府会議長となった。 1900年(明治33年)11月18日、大韓帝国の釜山(現在の大韓民国・釜山広域市)にわたり、善助が設立した釜山電燈会社に電気事業許可が下り、京都電燈と同地の居留民が共同出資して釜山電燈株式会社を設立、1902年(明治35年)4月1日には開業した。1910年(明治43年)5月、韓国瓦斯電気株式会社に同社を売却した。 1918年(大正7年)7月1日、京都電気鉄道を京都市に売却した。 1925年(大正14年)9月10日、善助の寄付で建てた、同志社女子部寄宿舎「大沢寮」が竣工した〔同志社女子大学公式サイト内の記事「同志社女子大学125年 」の記述を参照。〕。 1934年(昭和9年)10月10日、死去した〔。満80歳没。長男に大沢商会二代目社長・大澤徳太郎、孫にJ.O.スタヂオを興し、日本映画のトーキー化を推進した大澤善夫(徳太郎長男)、同志社同窓会名誉会長・同志社幼稚園名誉園長の武間冨貴(徳太郎次女、武間亨一の妻)がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大澤善助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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