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大瀬半五郎 : ウィキペディア日本語版
関東綱五郎[かんとうつなごろう]

関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年11月)は、日本の侠客である〔村上, p.37-60.〕〔次郎長三国志+村上元三 、国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。〕〔関東綱五郎墓之跡 、持田ツネ・鈴木幸雄・持田治郎、1977年7月13日付、2015年8月5日閲覧。〕〔綱五郎墓1 綱五郎墓2 、2015年8月5日閲覧。〕〔侠客関東綱五郎住宅跡 、持田治郎・持田ツネ、2015年8月5日閲覧。〕。村上元三小説次郎長三国志』に同名で登場〔〔、清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる大瀬の半五郎(おおせのはんごろう)〔清水次郎長の二十八人衆を知りたい 国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。〕と同一人物であるとされる〔〔山本, p.132.〕〔愚庵, p.65.〕〔, p.315.〕。本名は鈴木 綱五郎(すずき つなごろう)、出生名は鈴木 綱之助(すずき つなのすけ)〔〔。関東の綱五郎(かんとうのつなごろう)とも。
== 人物・来歴 ==
1822年(文政5年)、武蔵国多摩郡上椚田村字落合(現在の東京都八王子市高尾町1915番地)に八王子千人同心を務める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の6代目・綱之助として生まれる〔〔。先祖は甲斐国にあったが、甲州征伐による1582年4月3日(天正10年3月11日)の武田氏滅亡に際して、同地に移住したとされる〔。甲州街道(現在の国道20号)に面して、その生家は立地した〔。
八王子市に残る綱五郎の墓碑銘によると、数え年19歳のときにあたる1840年(天保11年)に出奔し、上野国(現在の群馬県)を経て各地を遍歴し、駿河国清水湊(現在の静岡県静岡市清水区港町)に流れ着いたという〔。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十二回『笠砥高市両党争威 荒神激闘二魁殞命』(笠砥の高市に両党威を争い荒神の激闘に二魁命を殞す)という章があり、綱五郎がかつて「半五郎」だったころ、江戸にいて遊郭に遊んでいたが、ある娼妓が綱五郎が粗野なのが嫌で雑に扱ったところ、綱五郎は拳銃を懐に入れて店に現れて娼妓を射殺、駿河国へと逃亡、やがて次郎長一家に入ったという略歴を伝えている〔〔。次郎長とは2歳しか年齢が変わらず、大政よりも10歳年長であった。
1866年5月22日(慶応2年4月8日)、伊勢国荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」では、大政が率いる本隊に対する別働隊として、綱五郎は甲斐国八代郡上黒駒村黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)らを制圧するために隊を組んで甲斐・信濃へ転戦しており、この2隊が三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津町)で合流し、吉良の仁吉を先頭に荒神山へ向かったという〔今川, p.171-178.〕〔清水次郎長 、コトバンク、2015年8月5日閲覧。〕。荒神山では、黒駒勝蔵一家・穴太徳一家の連合軍と戦闘、仁吉を失ったものの、勝利を収めた〔〔。
明治維新後の1871年(明治4年)に行われた荒神山の手打式の終了直後に撮影された清水一家の集合写真には、「大瀬の半五郎」として写っている〔File:荒神山の手打式の写真 ウィキメディア・コモンズ、2015年8月5日閲覧。〕。この時点ですでに満49歳である〔〔。その後、間もなく清水一家を離れ、故郷に戻る〔〔。1872年12月21日(明治5年11月21日)、鈴木家の菩提寺である真言宗正名山大光寺(現在の八王子市初沢町)の庫裏が消失したため〔縁起 真言宗正名山大光寺、2015年8月5日閲覧。〕、1877年(明治10年)前後に家屋(約45総欅造)を同寺に寄贈、同寺の庫裏として、2015年(平成27年)現在も使用されている〔〔〔境内案内 、真言宗正名山大光寺、2015年8月5日閲覧。〕。郷里の浅川村字落合では、多くの乾分を養って「任侠の士」として慕われたという〔。
1886年(明治19年)11月、神奈川県南多摩郡浅川村字落合(生地と同じ)で死去した〔。満64歳没。
『東海遊侠伝』は、綱五郎の亡くなる2年前である1884年(明治17年)、次郎長の生前に上梓されている〔東海遊侠伝 山本鉄眉近代デジタルライブラリー国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。〕。次郎長が死去したのは、綱五郎の没後7年を経た1893年(明治26年)6月12日、満73歳であった〔。綱五郎の墓所は落合山にあったが、のちに1977年(昭和52年)3月27日、妻セキ(1901年没)の菩提とともに大光寺境内に移された〔〔。同年7月13日、旧来の墓所に綱五郎の実孫である持田ツネ、その夫である持田治郎(1901年 - 1984年)、鈴木家8代目に当たる鈴木幸雄の連名で「関東綱五郎墓之跡」の石碑が建立された〔。持田治郎は、1960年(昭和35年)7月、社会運動家講談師大谷竹雄(1911年 - 1997年〔大谷竹山 、コトバンク、2015年8月5日閲覧。〕)の著書『関東綱五郎の生涯』を小島政二郎の監修を受けて、出版した〔関東綱五郎の生涯 、国立国会図書館、2015年8月5日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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