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大砲万右エ門[おおづつ まんえもん]
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、角田県刈田郡大鷹沢村三沢(現:宮城県白石市大鷹沢三沢〔故郷のヒーロー知って 白石出身の18代横綱大砲 DVDに (河北新報2013年2月7日)〕)出身の元大相撲力士。第18代横綱。本名は角張 萬次(かくばり まんじ)。 == 来歴 == 明治維新直後の1869年に農家の二男として生まれる。子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏み、1888年には「大砲」(大炮と名乗っていた時期もあった)に改名した。 1892年6月場所に新入幕を果たして3勝6敗と歯が立たなかったが、その身体の大きさなのか周囲の崩れに助けられたのか、負け越しにも関わらず翌場所は小結へ昇進した。1899年5月場所に新大関となり、4場所務めて全休1回・途中休場も1回あったが、大関では無敗のまま吉田司家から横綱免許を授与された。横綱免許を獲得した折に止め名であるはずの「谷風梶之助」の襲名を勧められたが、本人は「笑い者になりたくない」と固辞した。 1902年5月場所には8勝1分の好成績を残したが、陸軍の砲兵に志願して、1903年5月場所から3場所全休、帰って来た時には持病のリューマチを悪化させていた。1908年1月場所限りで現役引退し、引退後は年寄・待乳山を襲名して待乳山部屋を経営した。後に小結まで昇進する光風貞太郎が門下だったが、光風の十両昇進を見ることなく、1918年5月27日に背中の腫れ物を手術した後に発症した糖尿病で死去した。。没後、光風は出羽海部屋へ移籍した。 没後80年が経過した1999年11月28日、生誕130年を記念して故郷・宮城県白石市にある白石城二の丸公園の横綱碑と向かい合う場所に中村晋也が製作した銅像が建立され、除幕式が行われた〔創刊からの広報しろいし8 (白石市)〕〔広報しろいし2001年1月号 (白石市)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大砲万右エ門」の詳細全文を読む
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