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大熊 忠義(おおくま ただよし、1943年9月8日 - )は、東京都生まれ、大阪府羽曳野市育ちの元プロ野球選手(外野手)、野球解説者。 == 来歴・人物 == 東京都生まれ河内育ち。浪商高校では、3年生の時に、2年生エース尾崎行雄を擁し、二番打者、三塁手として春夏の甲子園に出場。春の選抜では準々決勝で法政二高に敗れる。夏の選手権では順調に勝ち進み、決勝で桐蔭高を1-0で降し優勝〔阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P61〕。高校同期に大塚弥寿男、住友平、2学年下に高田繁がいた。卒業後は近畿大学に進学するも中退。〔大熊が大学2年の時に2年上の先輩が阪神タイガースの入団テストを受けた際にかばん持ちとして付いて行った。この時に当時阪神のコーチであった青田昇からマイク・ソロムコのユニフォームを手に阪神入団の誘いがあり打席に立ったところプロアマ協定に引っ掛かり大熊は大学を中退せざるを得なくなった。同時に野球部も1年間出場停止処分を喰らった。(福本豊「阪急ブレーブス 光を超えた影法師」P120より)〕 に阪急ブレーブスに入団。には主に三塁手として11試合に先発出場するが、ダリル・スペンサーらの控えにとどまり外野手に転向。にはレギュラー左翼手となり、一番打者を任される。は矢野清が左翼手に入ったため中堅手に回るが、翌年から左翼手に戻る。からのリーグ3連覇に貢献。に福本豊が一番打者となり、盗塁王を獲るようになると、つなぎ役の二番あるいは下位打線に回り活躍。からのリーグ連続優勝に大きな役割を果たす。には簑田浩二に左翼手の定位置を譲り〔同年4月30日対ロッテ・ダブルヘッダー第1戦(西宮)で村田兆治投手から頭部直撃の死球を受けて交代。〕、からコーチ兼任〔。10月4日の近鉄バファローズ監督西本幸雄の退任試合で1試合だけ守備に就き、同年限りで現役を引退した〔。 引退後はは阪急一軍守備コーチ、 - 阪急・オリックス一軍野手総合コーチ、二軍ヘッドコーチ、 - は一軍打撃コーチを務めた。1994年、1996年は毎日放送の野球解説者、には阪神タイガースの一軍走塁コーチ、からまで阪神の一軍外野守備・走塁コーチを務めた。死球が飛び交った1998年8月2日の巨人戦では、報復的死球を与えた槙原寛己に飛び蹴りを食らわせて退場処分となった。阪神退団後はGAORA及びTigers-aiの解説者をしつつ、プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズでプレーしている。 、日本女子プロ野球機構が新たに立ち上げる京都アストドリームスの監督に就任し、1年間務めた(野球解説者の仕事も継続)。 また歌が上手で、阪急時代にチームのメンバーとレコードを発売した他、現役引退後に演歌のレコードを発売した事がある。現在は池田バッティングセンターにて毎週木曜日にコーチをしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大熊忠義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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