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大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら〔大田南畝「金曾木」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年,5頁の大田南畝の凡例より。〕、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。 名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号である〔同上。〕。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、〔大田南畝「金曾木」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年,728頁。〕巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。法名は杏花園心逸日休。 == 生涯 == 寛延2年(1749年)、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の太田正智(吉左衛門)の嫡男として生まれた。下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため〔大田南畝「金曾木」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年,5頁の大田南畝の凡例より。〕、15歳で江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門し、札差から借金をしつつ国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。17歳に父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、18歳の頃には漢学者松崎観海に師事した。 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行。これが評判となった〔これは師匠であった松崎観海の漢詩集『観海先生集』を捩っている。さらに作者名を陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、編集者を安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)などとする徹底した漢字遊びが随所に見られる。これが漢詩を学ぶ武士には大いに評判となった。平賀源内は「戯家(たわけ)の同士」と巻頭序文を寄せている。〕。 この後数点の黄表紙を発表するも当たり作はなかったというが、内山賀邸私塾の唐衣橘洲の歌会に参加した明和6年(1769年)頃より自身を「四方赤良〔”夜もすがら”からの捩り。後に南畝の高名さが「高き名のひびきは四方にわき出て 赤ら赤らと子供まで知る」という狂歌で詠まれている。〕」と号し、自身もそれまでは捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動しはじめた。それまで主に上方が中心であった狂歌が江戸で大流行となる『天明狂歌』〔当代の文化人たちも自ら狂名を定めて楽しんだ。〕のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。 当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風〔藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」の歌を引いた、「ひとつとりふたつとりては焼いて食う鶉なくなる深草の里」なども知られる。〕であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。安永5年(1776年)には、落合村(現・新宿)周辺で観月会を催し〔『望月帖』。〕、さらに安永8年(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会も催している〔「月をめづる夜のつもりてや茶屋のかかも ついに高田のばばとなるらん」の狂歌が残る。〕。翌、安永9年には、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、山東京伝などは、この頃に南畝が出会って見出された才能とも言われている。 天明3年(1783年)、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編む。この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになった〔「をやまんとすれども雨の足しげく 又もふみこむ 恋のぬかるみ」など。〕。天明6年(1786年)ころには、吉原の松葉屋の遊女・三保崎を身請けし妾とし自宅の離れに住まわせるなどしていた。 商人文化が隆盛を極める一方、農村は飢饉などにもよって疲弊していた。これを改めるべく天明7年(1787年)寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず〔元歌は「ぶんぶといふて身をせめるなり」とする説もある。〕〔:q:大田南畝〕」の作者と目されたことや〔同時代の平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話」には同歌の下の句を「ぶんぶというて夜も寝られず」とした上で、「大田直次郎という御徒士の落首」と記している。〕、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられたという話は有名になっている。これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった。天明7年(1787年)には横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する一方、しかし翌年(1788年)には重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出している〔毛虫を題として「毛をふいて きずやもとめんさしつけて きみがあたりにはひかかりなば」などが知られる。〕。 寛政4年(1792年)、46歳の南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していた〔「或る人の話、南畝老人は狂歌にて一徳一損あり。いかなる田舎までも赤良という名を知らざる人なきは狂歌の徳なり。役儀につきて勤功ありしゆえ、御旗本に召し出さるべき御沙汰ありしかども、狂歌師の四方の赤良といはれたる者を召し出されん事、同席の恥辱なりといふ論ありてその事やみたり。これ一損なり。」足代弘訓『伊勢の家苞』など。〕が、及第の2年後の寛政8年(1796年)には、支配勘定に任用された。 享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を偶然に目の当たりし〔このときに「永代と 言われし橋が落ちにけり 今日の祭礼明日の葬礼」と詠んだ。〕、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版。 文化9年(1812年)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる〔この時の心境を「うみの子の いやつぎくにめぐみある 主計(かずへ)のかずに入ぞ嬉しき」と詠んでいる。〕も、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた。 文政6年(1823年)、登城の道での転倒が元で死去。75歳。辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」〔「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」とも伝わる。〕と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大田南畝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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