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大矢根博臣 : ウィキペディア日本語版
大矢根博臣[おおやね ひろおみ]

大矢根 博臣(おおやね ひろおみ、1935年7月1日 - )は、日本の元プロ野球選手投手)。
== 来歴・人物 ==
香川県三豊郡仁尾町(現 三豊市仁尾町)出身。香川県立観音寺第一高等学校卒業。
1954年(昭和29年)に観音寺第一高校から中日ドラゴンズに入団。同年9月23日の対大洋松竹ロビンス戦でプロ初先発で完封勝利、最終戦でも大洋松竹に勝ち、2勝を挙げた。
どんな場面も緊張せず、伸びのある快速球を内角高目にどんどん投げ込むのがスタイル。これにキレ味鋭い外角へのスライダーと速いシュート、今で言うツーシームを混ぜて勝負した。1956年(昭和31年)に先発ローテーションに定着すると、20勝、リーグ3位の防御率1.53の活躍を見せた〔『日本プロ野球偉人伝 第4弾』(ベースボール・マガジン社)(2013年) 58頁〕。
1957年(昭和32年)には、ヒジ痛もあって12勝と勝ち星が減り、最後まで調子が上がらなかったが、同年10月12日の対大阪タイガース戦でノーヒットノーランを達成した。「調子はよくなかったが、その分慎重に投げたのがよかった」と振り返る通り、三振わずか2での快挙だった〔『朝日新聞』昭和32年10月13日付朝刊 (12版、9面)〕。
1958年(昭和33年)には、シュート中心にスライダーも交えたコーナーワーク、さらに沈むシュートを多投して、自己最多の24勝を挙げて3年連続で2ケタ勝利に到達、オールスターゲームにも出場している〔『新プロ野球人国記 第2巻』(ベースボール・マガジン社)(1987年) 185頁〕。
しかし、翌1959年(昭和34年)5勝と不振。同年5月3日の対巨人戦では先発登板が発表されていたが、試合前にブルペンで腰痛を発症し出場を回避したが登板は記録された〔『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』(宇佐美徹也著:ベースボール・マガジン社) 776頁〕。1960年(昭和35年)には、15勝で復調の兆し見せ、〝1年置きのエース〟とも言われた〔『日本プロ野球偉人伝 第4弾』(ベースボール・マガジン社)(2013年) 76頁〕。
1960年(昭和35年)11月26日に滋賀県の国道1号線を自動車で走行中に交通事故を起こし同乗者2名が死亡し、自身も頭蓋骨骨折の大怪我を負った〔『朝日新聞』昭和35年11月26日付夕刊 (3版、7面)〕。同年12月に小淵泰輔とのトレードで西鉄ライオンズへの移籍が発表された〔『朝日新聞』昭和35年12月18日付朝刊 (12版、9面)〕。背番号も「1」に変え、出直しを期したが、わずか2勝に終わり、1962年(昭和37年)限りで現役を引退した。
1963年(昭和38年)に東海ラジオ放送野球解説者に就任。その後は中日ドラゴンズOB会副会長を歴任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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