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大矢知素麵(おおやちそうめん)は、 約200年前(江戸時代の幕末期)から「三重の糸」 「伊勢そうめん」として知られ、農家の副業として生産されるようになった三重県四日市市大矢知地区の特産品の素麵である。 ==起源== 大矢知の手のべ素麵は江戸時代のある日1人の旅の僧侶が朝明川畔の農家に一夜の宿を乞い、その大矢知地域の人々の親切なもてなしに大変喜びお礼として素麵の作り方の秘伝を授けたのがその起源とされる〔興譲百年のあゆみ四日市市立大矢知興譲小学校95頁1行目~9行目〕。 ==歴史== *幕末~明治初期に大塚源造・春日部金五郎らが素麵造りに従事していたが、兵庫県武庫郡深江村の田中栄五郎・姫路市の酒井富蔵・伊勢田直吉が来村して灘式の素麵つくりを開始した〔興譲百年のあゆみ四日市市立大矢知興譲小学校95頁10行目~12行目〕。 *その技術の優秀さにひかれて水谷五松ほか数名がその灘式素麵技術を習得して、本格的な素麵造りが開始された。 *1897年(明治30年)頃には大矢知を中心にして185戸が生産に従事して192373円の生産額を上げた。しかし生産額の増加により粗悪品も出始めて、大矢知素麵の評価は下落の傾向を見せ始めて、市場取引を困難として、1907年(明治40年)頃には12000円にと落ち込んだ。これを憂いた佐藤大矢知村長はその打開策として1910年(明治43年)9月に同業組合を創設して、品質の管理・品質の改善、原料の共同購入、製品の共同販売などを実施した。1912年(大正元年)には生産額は340000円以上に上昇して戸数も276戸と増加した〔興譲百年のあゆみ四日市市立大矢知興譲小学校95頁13行目~19行目〕。 *大矢知地区の素麵作りは殆どが農家であり、真冬の農閑期を利用した副業であった。大正時代には三重郡富田町・富洲原町・川越村・朝日村・八郷村・下野村でも素麵作りがされるようになり、300戸以上の製造業者がいた。 *製法も大正中期から機械生産に移行して手延べ素麵の生産額は減少にいたった。製造工場に製造農家がおされていく事を意味して、1930年(昭和5年)には244戸となり、1940年(昭和15年)には185戸の戸数が減少している。 *太平洋戦争中の休業状態から再開して、1951年(昭和26年)の小麦の食糧統制が撤廃されてから製麺業も再び活発となり、1955年(昭和30年度)には100戸以上が大矢知素麵作りに従事して、生産量も9kg入り6万箱をこすほどとなった。しかしその後は大矢知地区の都市化・住宅化の波に襲われての農家や素麵製造業者からサラリーマン家庭が急増して大矢知素麵従事戸数は、1970年度(昭和45年度)には約40戸となる、生産量も3万箱と半減している。「皇国の糸」・「光栄の糸」・「八幡の糸」・「三重の糸」・「桜の糸」・「藤の糸」・「朝明の糸」などの銘柄があった。手延べ冷麦の製造は1959年(昭和34年)に人見実によって考案された〔興譲百年のあゆみ四日市市立大矢知興譲小学校96頁1行目~11行目〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大矢知素麺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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