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大石定重[おおいし さだしげ] 大石 定重(おおいし さだしげ、応仁元年6月1日(1467年7月2日) - 大永7年10月10日(1527年11月3日))は、戦国時代の武将。大石氏は武蔵国の国衆で、山内上杉氏の有力宿老のひとつ。定重はそのうち遠江守家の五代目で、父は大石憲儀。母は矢野範泰の娘で、定重は庶子。伯父に四代目の源左衛門尉がいる。子に六代目の道俊(顕重か)・遠江守・信濃守がいる。高月城のち滝山城城主。武蔵国守護代。正室は小幡氏。 == 経歴 == 大石氏は代々上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。 遠江守家の四代目は伯父にあたる源左衛門尉で、源左衛門尉は文明(1477年)9年5月8日の武蔵針谷原合戦において戦死している。定重の初見史料は道興『廻国雑記』で、長享元年(1487年)に亡父の三十三回忌を供養した「大石信濃守」として登場する。「信濃守」の受領名は遠江守家の歴代には見られず、定重が庶子であるためと考えられている。万里集九『梅花無尽蔵』では、同年に集九に対して亭名「万秀斎」を求めた「武蔵目代大石定重」として登場し、この時点で家督を継承し武蔵守護代に就き、「定重」を名乗っていたことが確認される。「定」の一字は上杉顕定からの偏諱であると考えられている。 永正7年(1510年)6月、上田政盛が権現山城で挙兵した際には、上杉憲房・上杉朝良軍として成田顕泰・長尾氏と共に参加し、援軍の伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退し乱を平定した。 大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城、本拠を移した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石定重」の詳細全文を読む
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