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__NOTOC__ 大石氏(おおいしし)は、室町時代、戦国時代に関東地方で活躍した氏族。関東管領上杉氏のもと、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ〔『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年〕、代々武蔵国の守護代を務めた。 信濃藤原氏(沼田氏と同族とされる)の後裔といい、信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから、大石氏を名乗ったといわれる。 また、これらとは別に平安時代初期編纂の新撰姓氏録に記される古代氏族にも大石氏はあるが未詳。 == 概要 == === 関東管領の宿老 === 室町時代初期、大石為重は初代関東管領の上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334年(正慶3年)に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。 信重は観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。その戦功として、1356年(延文元年)武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年(至徳元年)、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城した。応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めた。 1458年(長禄2年)、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移した。 15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。1521年(大永元年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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