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大越 基(おおこし もとい、1971年5月20日 - )は、宮城県宮城郡七ヶ浜町出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。 2007年より早鞆高等学校で保健体育の教師、からは同校野球部監督も務めている。 == 来歴・人物 == === プロ入り前 === 七ヶ浜町に生まれ、亦楽小学校で2年生の時に野球を始める。宮城球場でロッテの試合を観戦した際にサインをもらい、嬉しくて変色するまで机に飾っていたという〔朝日新聞、2004年9月29日付朝刊、宮城地方面〕。会社員だった父の転勤にともない、小学校6年生の時に青森県八戸市に転校した〔朝日新聞、1989年8月20日付朝刊、P.26〕。このため一部文献では青森県出身と表記されている〔1995年以降の日刊スポーツ制作による選手名鑑。〕〔Web東奥 - 2000年11月18日付「プロ野球ドラフト根市を巨人指名」(ウェブアーカイブの保存キャッシュ) 〕〔週刊ベースボール2010年2月1日号、不定期連載『セカンドキャリアの「球人力」』第12回?大越 基のプロフィール。〕。八戸二中では速球派投手として評価され、市内の3つの高校の野球部から勧誘を受けたという〔。しかし小さい頃からの憧れもあり、寮生活に反対する両親を説得して仙台育英に進学した〔。 高校ではエースとして第61回選抜大会に出場、1回戦で13奪三振〔asahi.com 第61回選抜高校野球大会 仙台育英 対 小松島西 〕、2回戦では12奪三振〔asahi.com 第61回選抜高校野球大会 仙台育英 対 尼崎北 〕と面白いように三振を取って〔朝日新聞、1998年6月23日付朝刊、宮城地方面〕チームも勝ち進んだ。しかし上宮との準々決勝で元木大介に気圧され、竹田利秋監督の指示通りに内角を攻められず本塁打を打たれてチームも敗れた〔。上宮との再戦という明確な目標ができたことで大会以降は厳しい練習にも耐え〔、3年夏も2季連続で第71回全国選手権大会に出場を果たした。 選手権大会では1回戦で吉鶴憲治と大西崇之を擁する鹿児島商工を破り、続く2回戦では京都西を1安打完封している〔asahi.com 第71回全国高校野球選手権大会 仙台育英 対 京都西 〕。弘前工業との3回戦では3番打者を努めて自ら決勝点となる本塁打を放ち〔、元木や種田仁、小野寺在二郎を擁する上宮との念願の再戦となった準々決勝は10対2で圧勝した〔。準決勝の対尽誠学園戦では延長10回まで行った宮地克彦との投げ合いを制したが、この試合終盤から右肘に痛みを感じたという〔朝日新聞、1989年8月23日付朝刊、P.26〕。4日連続の登板となった帝京との決勝戦は吉岡雄二と9回までお互い0点に抑える投手戦となり、痛みに耐えながら136球を投げて完投し自ら3安打も放った〔が、延長戦の末に敗れた。大会後は全日本選抜に選ばれ、韓国遠征に参加している〔朝日新聞、1989年8月23日付朝刊、P.17〕。 プロ野球からの誘いもあったが、「楽しく自由な野球がしたい」とアマチュア野球に進む事を希望して早稲田大学の人間科学部に特別選抜試験を経て入学〔AERA、1989年12月26日号、P.6〕。六大学リーグでの優勝とバルセロナ五輪代表に入ることを入学前は目標に掲げ、卒業後は会社員になるつもりだと語っていた〔。1年生のには春季リーグ戦の対明大戦で初登板し、完投勝利を挙げる。その後は勝ち試合でリリーフを任されて〔AERA、1990年6月5日号、P.76〕胴上げ投手にもなり〔AERA、1990年12月4日号、P.65〕、チームの15季ぶりの優勝に貢献。しかし一方で、石井連藏監督らが事あるごとに早稲田の伝統や飛田穂洲、安部磯雄の名前を持ち出すなどの重苦しい雰囲気に馴染めず〔、夏の練習には参加せず秋季リーグ戦ではベンチ入り登録がなく、11月16日に退部届を提出して受理された〔読売新聞、1990年11月18日付朝刊、P.18〕。 その後は授業に出ずに牛丼屋やコンビニでアルバイトしながら麻雀やパチンコなどをしていた〔朝日新聞、2006年4月5日付朝刊、福岡地方面〕が、3月に大学を退学〔朝日新聞、1992年4月20日付夕刊、P.10〕、同年6月にダン野村がオーナーだったカリフォルニアリーグのサリナス・スパーズ(1Aアドバンス)に入団している〔読売新聞、1992年6月13日付朝刊、P.20〕。11試合に登板し、1勝1敗の成績だった。同年秋のドラフト会議で松井秀喜の抽選が外れた福岡ダイエーホークスから1位指名を受けて入団。ダイエーからは速球を高く評価され、主力級の背番号19が与えられている〔。担当スカウトは石川晃で、契約金と年俸はそれぞれ8,000万円、800万円(いずれも推定)だった〔読売新聞、1992年11月26日付朝刊、P.18〕。 アメリカ合衆国の1Aに所属していたことから、NPBの新人王の規定から外れていたが、パ・リーグ会長の原野和夫の要請を受け、ドラフト会議を経ていることから資格を認めるとの判断を当時の吉國一郎コミッショナーが下している〔読売新聞、1992年12月4日付朝刊、P.21〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大越基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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