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大酒神社(おおさけじんじゃ)は、京都府京都市右京区太秦蜂岡町にある神社。式内社で、旧社格は村社。 == 祭神 == 祭神は次の5柱〔境内説明板。〕。 ; 主祭神 : * 秦始皇帝 : * 弓月王(ゆんずのきみ) : * 秦酒公(はたのさけのきみ) ; 相殿神 : * 兄媛命(えひめのみこと) - 呉服女。 : * 弟媛命(おとひめのみこと) - 漢織女。 『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。同帳では「大酒神社」とあることから、元の神名は「大辟神」であったことが知られる。 大酒神について、広隆寺の縁起である『広隆寺来由記』(山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記、明応8年(1499年)成立)〔『群書類従 新校 第十八巻』 (内外書籍、1931年-1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)384-388コマ。〕では秦の始皇帝の祖神とし、日本に渡来した功満王(秦始皇帝の後裔、秦氏遠祖)が勧請したとする。伝承自体の真偽は明らかでないが、伝承に見えるように古くから太秦一帯を開発した秦氏の氏神であったと推測され、史書に見える秦酒公(はたのさけのきみ)と大酒神を関連づける説もある〔。一方近世の『雍州府志』では祭神を物部守屋とし、一説に秦河勝とする。また『都名所図会』では祭神を天照大神・八幡神・天満天神とし、別説に秦の始皇帝とする説や、秦河勝とする説を載せる。 これらとは別に近年の研究では、元の神名の「大辟(大避)」から、「災厄を避ける(遠ざける)」いわゆる道祖神とする説が挙げられている〔。この説では、『空華日工集』・『広隆寺縁起』において神体が石と記されることと、一般に石神の多くが猿田彦神(道祖神)とされることとが関連づけて指摘される。一方、「オホサケ」を「大裂」の意とし、土木技術によって大地・川を裂き開拓を行なった秦氏をたたえる神格とする説もある〔水谷千秋 『謎の渡来人秦氏(文春新書734)』 文藝春秋、2009年、pp. 55-59。〕〔菅澤庸子 『人権 ゆかりの地をたずねて 京都市内編 』 京都人権啓発推進会議、2001年、pp. 26-27(リンクは京都府ホームページ)。〕。 このように古代の祭神の神格は不詳ながら、明治16年(1883年)の神社明細帳では上記5柱が祭神として記され、現在に継承されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大酒神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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