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大野 一雄(おおの かずお、1906年(明治39年)10月27日 - 2010年(平成22年)6月1日)は日本の舞踏家。大野一雄舞踏研究所主宰者。 == 経歴== 北海道函館市に生まれる。1919年(大正8年)4月、旧制函館中学に入学。亀井勝一郎 や今日出海と同級生だった。翌年、大館中学校(後の秋田県立大館鳳鳴高等学校)に編入学。1925年、卒業、函館近村の泉沢尋常高等小学校で代用教員を1年間務める。 1926年、日本体育会体操学校(現日本体育大学)に学ぶ。同年12月、徴兵令により札幌歩兵第25連隊に入隊、1年4ヶ月の兵役につく。1929年、スペイン舞踊家ラ・アルヘンチーナ(アントニア・メルセ)の来日公演を見て感銘を受け、舞踏家の道に進む。 体育教師として神奈川県横浜市の捜真女学校に体育教師として勤務する傍ら、石井漠に師事してモダンダンスを修行。1936年 ドイツでマリー・ウィグマンにノイエタンツを学び、帰国後、日本のモダンダンス界の中心的存在だった江口隆哉と宮操子による、江口・宮舞踊研究所に入所するも、 1938年太平洋戦争で召集を受け、ニューギニアに出征。戦後復員し、1949年に第1回目のリサイタルを開く。1960年代に土方巽と出会い、暗黒舞踏公演で共演。1977年、独舞踏「ラ・アルヘンチーナ頌」を発表し、注目を集める。同年、舞踊批評家協会賞受賞。1980年、捜真女学校を退職。同年、フランスの第14回ナンシー国際演劇祭に出演。1999年イタリアで第1回「ミケランジェロ・ アントニオーニ賞」受賞。 100歳を超えてもなおも舞台に立ち続け、2000年に腰を痛めて立つことが困難になった後も生涯現役を貫く舞踏家として、舞踏界に衝撃を与え続けた。2001年にはボローニャ大学内に大野一雄研究室が開設された。 最晩年の数年は、アルツハイマー型認知症との闘病生活だった。2010年6月1日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去〔。。 代表作として「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」などがある。門人に笠井叡や上杉満代らがいる。息子の大野慶人も舞踏家である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野一雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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