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大野派 : ウィキペディア日本語版
大野伴睦[おおの ばんぼく]

大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は日本政治家
東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長国務大臣北海道開発庁長官日本自由党幹事長自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の格言を残した。
タカ派の政策集団・青嵐会を結成し、後に農林水産大臣科学技術庁長官などを務めた中川一郎の政界での師匠として知られる。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
岐阜県山県郡(現・山県市)で大野直太郎の三男として生まれた。
岐阜から上京し、明治大学政治経済学部に入学、弁護士を目指していたが、憲政擁護運動に関心を持ち、1913年(大正2年)に大正政変の暴動に参加するようになった。そして政友会本部に立ち入るようになって、三多摩壮士の総帥であり、党の幹部だった村野常右衛門に薦められて立憲政友会院外団に入るようになった。のち、明治大学政治経済学部を中退した。
1923年(大正12年)、東京市会議員となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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