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大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日)は、将棋棋士。棋士番号7。東京都台東区出身。A級在籍16期。木見金治郎九段門下。 == 生涯 == 東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。 戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年(昭和22年)に順位戦がスタートした際に、それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が「持ち時間各7時間の1日制」に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がないとされる振り飛車を積極的に採用するようになる〔捌く居飛車 - 将棋ペンクラブログ・2015年1月3日〕。この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、「振り飛車名人」の異名を持つ。升田の向飛車、大山の四間飛車に対して大野は三間飛車を得意とした。彼の戦法は後に大内延介、近藤正和らに受け継がれているといわれる。 14世名人木村義雄は、当時は角道を止めた上に1手使って飛車を振るため、守勢になることが好ましくないとされていた振り飛車と言う不利な戦法を研究の上で得意戦法としてA級順位戦に返り咲いたことを評価した〔湯川 (2005) p.204 - 『将棋世界』 1954年5月号からの孫引き。〕。大野の振り飛車の捌きは高く評価され、弟弟子の升田幸三も「大野さんの捌きは日本一だ」と絶賛。大山康晴は「受け一方ではなく攻める振り飛車だから恐れられている」と評した〔湯川 (2005) p.208 - 1954年のこと。〕。また、久保利明も大野の棋風に影響を受けたらしく、将棋年鑑のアンケートの「故人を含めて指したい棋士」で大野の名前を挙げている。当の大野は、振り飛車について、美濃囲いが他の囲いに比べて固く、左翼を突破されても玉にはすぐには響かないなどの点が、捌きを身上とする自身にとって相応しいと語っていた〔湯川 (2005) p.211 - 『将棋世界』 1954年9月号よりの孫引き。〕。 1963年のA級順位戦で塚田正夫と対局した際、塚田が大野の玉に王手をかけたにもかかわらず、大野は構わず塚田の王に王手返しをかけ、塚田に「これ、もらっておくね」と言われ玉を取られてしまった。 1969年のB級1組順位戦最終局で米長邦雄と対局し、ここで勝てば自身が当時のA級昇級(復帰)最年長記録を樹立し、さらに中原誠、芹沢博文のいずれも昇級がないという一番に敗れ、中原を昇級させる事になった。いわゆる「米長理論」にやられた格好である。 1975年、関西将棋会館建設に当たって建設委員長に推戴された。 1979年1月14日、電車の踏切をくぐろうとしてはねられ即死。享年67。 五人兄弟の長男であり、末弟は漫才師のあした順子・ひろしのひろしである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大野源一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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