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大阪教育大学附属高等学校平野校舎(おおさかきょういくだいがくふぞくこうとうがっこうひらのこうしゃ)は、大阪府大阪市平野区にある国立高等学校。 大阪教育大学の附属学校として、一般的な高等学校教育に加えて、教育実践の研究や教育実習生の受け入れなどをおこなっている。受験資格は、保護者と一緒に居住し通学時間が90分以内の者。 1学年あたり3クラス編成で、大阪府内の高等学校としては小規模となっている。 == 沿革 == 大阪教育大学の附属学校は、天王寺・池田にはそれぞれ小学校から高等学校まで設置されていた一方、平野には幼稚園・小学校・中学校はあったものの高等学校は併設されていなかった。 大阪教育大学附属平野中学校卒業生の進学先として附属高校設立を求める声が、1960年代以降学校関係者から出るようになった。1970年には大阪教育大学が初めて大学の概算要求として平野に附属高校を設置することを盛り込んだ。しかし、当時天王寺・池田・平野の3ヶ所に分散していた大学キャンパスの統合問題を優先するとして、高校増設の予算は見送られた。 大学は1971年5月、平野に附属高校を増設する概算要求を再度おこなった。高校進学率の上昇で附属高校設置が一貫教育に役立つということが理由としてあげられた。また、科学教育振興のために理数教科重視の教育課程を組む高校の増設と、当時大阪教育大学に設置されていた特設理科教員養成課程・特設数学教員養成課程(高校教師の教員養成課程)の学生の教育実習先とすることも、高校設置理由としてあげられている。 大学側は当初、附属高校設置については「附属学校の整備」の一つと位置づけ、重点事項という扱いをしていなかった。その一方で附属平野学園(平野校地関連の附属学校の総称)関係者は、幼稚園・小学校・中学校の学級減をしてでも平野に附属高校の増設をという機運になった。関係者の声を反映し、大学側は重点事項として概算要求に組み込み、1971年末に文部省から高校設置の予算が付いた。ただし、あくまでも大阪教育大学附属高等学校平野校舎であって、実質上はともかく、附属高等学校の3分校の一つという形態である。したがって、同分校の最高責任者は実質的には「附属平野高等学校長」であるはずなのに、正式には「附属高等学校平野校舎主任」(同高等学校平野校舎・校長代行とでもいうべき職責)という職名の辞令(学長発令)で、本来教授であるはずの「校舎主任」は、同じ大学の教授である大阪教育大学附属高等学校長(大臣発令)の下にあるという深刻な問題点を抱えることになった。この不自然さは、現在もなお解決されていない。 大阪教育大学附属平野中学校の校舎の一部を間借りし、また附属中学校の定員の一部を減らす形で、1972年に開校した。初年度は外部募集は実施せず、附属中学校卒業者のうち約3分の2が内部進学している。 翌1973年より同一敷地内に高校の独立校舎の建築が始まり、1974年9月に独立校舎へと移った。従来の講堂兼体育館を曳き家で校内の別の場所に移動させ、その跡地に高校の独立校舎を建設している。中学校・高校の校舎を並列に配置して特別教室を共用できるようにしたことや、校舎管理部門の一本化を図ることを考慮して、校舎の位置が決められた。 1978年には校歌が制定された。校歌制定に先立つ1976年に校歌作成委員会が発足し、関係者から歌詞を公募した。歌詞については、保護者が応募した原詞を元に、校歌作成委員会が補正をおこなった。また校歌の作曲は、作曲を専門とする大阪教育大学助教授が手がけている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪教育大学附属高等学校平野校舎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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