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大館周辺の戦い(おおだてしゅうへんのたたかい)は、戊辰戦争における秋田戦争の大館周辺での戦闘。ここでは、岩瀬会戦以降を記述する。 == 経緯 == 慶応4年(1868年)9月2日岩瀬会戦で久保田藩は、一気に大館の手前にある二頭山まで回復した。この日、津軽藩は久保田藩側に援軍の申し入れを行った。しかし、総大将の田村乾太左衛門は「今は必要ない」と皮肉を込めて津軽藩の使者に答えている。津軽藩の日和見を批判したものであるが、津軽藩は援軍を決定した。 9月3日両軍とも陣形の立て直しと、小競り合い程度の戦いが行われた。4日には大館郊外での広い地域での全面的攻防戦となった。南部側はこの日、軍議により総攻撃を行うことに決していた。午前中は南部軍が優勢だったが、午後からは次第に久保田軍の方が優勢になっていった。5日も南部軍の抵抗は激しく勝坂、神明社、土飛山、長木川堤と連なる南部軍の陣地は強靱であった。しかし、この戦闘は南部軍の撤退のための偽装であった。南部軍は弾薬も手薄となり、葛原口にも久保田軍が侵攻して退路が新沢口しかなくなっていた。〔『鹿角市史』〕 板戸村を急襲突破した部隊は、4日扇田村を目指した。扇田村には400名ほどの南部兵がいたが、扇田村は全くの焼け野原になっており備えを立て直すことができなかった。久保田軍が仁井田村を突破したとの報が入ると、扇田村の南部軍は十二所に後退した。久保田軍が扇田村に到着したときには、扇田村は静まりかえっていた。久保田軍は南部軍の本陣があった徳栄寺を本陣として警戒につとめた。5日にはこの地区では小競り合いだけがあった。 5日、津軽藩の援軍が到着した。しかし、わざわざ間道を通り長走村に駐留する南部軍との戦闘を避けて到着したため、かえって総大将の田村らに疑惑の目を向けられることになる。 5日夜、総隊長の田村乾左衛門は6日の午前6時に大館を総攻撃する命令を出した。しかし、楢山佐渡は退路を断たれるのを怖れ、夜半から転陣を開始し、攻撃予定時刻には大館から全面撤退していた。この撤退は見事なもので、一歩間違えれば南部藩全滅の恐れがあった。南部軍の陣地には多数の武器が残されていたが、南部軍は久保田軍の誰にも気づかれることがなく全面撤退を成功させた。〔『ほくろく戊辰戦記』〕 6日、佐竹大和は落城以来14日目に大館を回復した。早速軍義が開かれ、以後の戦いでは総隊長の田村が直接指揮をとることになった。 十二所本道への攻撃は6日夜から始まった。夜明けまで手配を行い、7日午前11時に大滝村の南部陣砲撃隊との交戦が行われた。南部軍も待ち構えており、苦戦が続いた。新任の監軍であった橋口次郎は何度も「全線不利、一時退却」を進言し、佐賀軍の斥候も同一意見を具申した。しかし、川向かいの葛原街道にいた部隊が横撃することによって、南部勢を追い落とすことに成功した。勢いに乗った久保田軍は続いて十二所を回復した。開戦の日から27日目であった。全線休まず攻撃続行をしたが、南部軍の主力は三哲山に陣を置き、鍋島藩の砲撃隊も一時危機に陥った。そのため、夜間になると十二所に引き上げた。 8日は明治と改元された日である。総隊長の田村は十二所から大館に戻り、正午から軍義を催した。津軽藩応援隊を含めて軍義を行い、各隊の配置を決定した。津軽藩の応援隊は雪沢口を担当することになった。 雪沢口では8日夜から、南部軍は大葉岱に陣地を構築し、9日日没までに完成した。大館方の前線基地である鬼ヶ城の2隊が大葉岱をうかがったが、その隙をねらわれ逆に鬼ヶ城が襲われてしまう。そうしているうちに、雪沢口の各要所は南部軍に奪われてしまった。しばらくの間、小競り合いが続くが、11日津軽藩の応援隊を含めて、3方から攻撃を行うことにした。二ッ屋で勝利を得、大葉岱を攻撃すると南部側は大葉岱の陣営に火をかけて退却した。さらに、水沢村も退却して雪沢口では、藩境まで南部兵を追いやった。総隊長の田村はすかさず水沢村に本陣を置き、部隊を配備した。結果、戦線は長大に延びた。その後、雪沢口での戦闘は夜戦の他は、小競り合い程度の大きな変化の無い対峙が続いた。南部兵も連日小戦闘を挑んできた。これは、雪沢口から十二所口に兵を移動させない計略であったと考えられる。 15日午前7時、南部軍の反攻が十二所口で始まった。本道の沢尻村方面を主力が、右翼は別所、左翼は葛原からの攻撃である。まず、葛原口からの攻撃から戦闘が開始された。猿間村に陣営していた部隊は一時退却して援護を待った。楢山佐渡は本隊で陣頭指揮を行っていた。そのため、「総大将は目前、殊勲の時」と触れ合って攻撃をかけたが、楢山佐渡の本陣は堅く久保田軍は押される状況であった。この事態に、小城藩の部隊は特攻隊を組織し、犬塚賢之を隊長とする「犬塚特選隊」を組織した。特選隊はイチかバチかのキリもみ戦術を敢行した。十二所方小室定八郎日記によると「飛鳥とはこれなりや」とある。南部陣の前面へ不意に現われるなり、喊声をあげて、まっしぐらにおどり込んで突出して行った。無謀ともみえるが、これが奇功を奏し、南部側は一角をくずされ、そのまま逃げ足がついてしまった。ただ、久保田軍陣営にも死傷者が出ており、それ以上の進展はなかった。葛原口でも援軍が到着、南部軍を追いやった後、日没近くに大雨が降り、この日の戦闘は終了した。 15日夜には藩境に近い薬師森、黒岩山を久保田軍が占領した。薬師森は毛馬内を俯瞰する要衝である。毛馬内市内は大混乱に陥り、民衆が周辺の山中に避難する騒ぎとなった。19日に峰続きの月山を守備していた南部軍の三浦隊が夜襲を行い、この要衝の地を奪還した。この時、久保田兵4名が討ち取られていて現在でも兵士の墓が薬師森山頂にある。〔『鹿角市史』〕 19日に藩境の村である沢口村の村人惣助が明朝楢山佐渡本陣から討ち入りの計画があるという注進があった。十二所本陣では早速軍義を開き先制奇襲を行うことを決定した。午後8時に3方から夜襲を行い、佐渡の陣に斬り込んだ。佐渡はすでに逃げてしまった後であった。佐渡がいた部屋には、銀の時計と銀つきの胴金具が残されていたという。この攻撃に呼応した葛原口の攻撃では、易々と葛原口を突破し、先に進んだ所で3方からの銃撃を受け葛原村に引き下がった。ここで、南部軍が絶対有利な場面であったが、南部軍は夜が明けないうちに撤退していった。 20日の夜、南部軍の降伏嘆願のことが噂として兵の間に伝わっている。ただ、小戦闘は継続しているので、久保田軍側では敵の陰謀だと戒め合っていた。しかし、新沢口では3人の町人に停戦申入書を持たせて久保田陣営に送り届けている。また、十二所でも発砲され繰り返すこと3度にしてようやく停戦申入書を久保田側に手渡した。21日、久保田藩須田政三郎と佐竹大和連名の返書が南部軍に届いた。その申し入れに従って、久保田藩領に侵入していた南部藩諸隊すべては撤退した。〔『鹿角市史』〕 25日南部の降伏談判が藩境の町、沢尻村で行われた。南部藩の重臣である三戸式部と目時隆之進ほかをともなって、降伏条件を談判し、南部藩は降伏した。 津軽藩は最後に雪沢口で活躍するものの、津軽藩のこの戦闘への参加態度は、新政府側に日和見とも受け取られかねない状況であった。これが、野辺地戦争や鹿角の濁川焼討ち事件、さらには箱館戦争での津軽藩の全面協力へと繋がっていく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大館周辺の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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