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大館城攻城戦(おおだてじょうこうじょうせん)は、1868年(慶応4年)の戊辰戦争の一つの秋田戦争で、南部藩軍が久保田藩領の大館城(現、秋田県大館市)を攻撃した戦闘である。 南部藩は十二所の戦いで圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み十二所・扇田地区を占領し、大館城に迫っていた。扇田村を占領された久保田藩は鉄砲も旧式なものばかりで、新式銃がわずか5挺と南部藩と比較して圧倒的に劣勢なものの、藩南部の庄内藩との戦闘での残存部隊をやりくりをして大館城を防衛しようとした。大館城の北にあった津軽藩は、対馬鉄砲隊を大館に移動させ、さらに藩境に部隊を展開させていた。 == 経緯 == 8月20日に南部軍は扇田村を占領、全村に火をつけて焼き払った。 久保田藩は北部の雪沢口への総攻撃を計画していたが、敗戦の報が入ると戦線を縮小、大館城を守備するため大館城周辺に布陣した。布陣は東は長根山の山際から西は米代川の沿岸まで一里余に渡った。兵力はまたぎ隊や農兵隊を加え500余名であった。 8月21日南部軍は大館城を攻略しようと渡河を開始した。総隊が集結したのが午前8時で、直ちに進撃に移ったが、側面の山館村から激しい砲撃が加えられた。桜庭隊は一隊を山上に登らせて上下から挟撃したため、山館村の久保田軍は撤退した。餌釣村や金谷村は焼き払われた。山王台近くで桜庭隊と向井隊は合流し、山王台の久保田軍と交戦したが、本隊の楢山佐渡隊は扇田付近の残敵整理に手間取りなかなか渡河できずにいた。このとき、向井隊は援軍要請をしなければならないような状況であったため、日没後向井・桜庭隊は若干の兵力を山王台に残し、米代川の河原に引き上げた。楢山佐渡は22日佐渡の渡河を待って三将一致して総攻撃に移る旨を伝達した。河原に引き上げた向井・桜庭隊は側面が深田のため死地にいることを危惧し夜襲を決意した。午前1~3時頃全員軽装になって繰り出し山王台での漆黒の中での戦闘が2刻ばかり続いた。その後、両軍発砲をやめ夜明けを待った。〔『鹿角市史』3巻下〕 向井蔵人・桜庭祐橘の2部隊600余名と楢山佐渡の応援隊約100名が、久保田側に対して布陣を敷く形となった。8月22日の朝5時過ぎ、一発の大砲を合図にして、全線で戦闘が開始された。最初、向井蔵人隊は合図を間違え、「進め」「退け」「撃て」「撃つな」などの相反する命令を立て続けに出した。内藤十湾(内藤湖南の父)は「もし兵法に心あれば、身方の勝利はおぼつかなし。敵の軍に拙きは身方の幸いなり」と記している。〔『ほくろく戊辰戦記』〕 久保田藩側の大館城東の根本源三郎隊と小林主鈴隊は一時は長根山山麓まで南部兵を追撃したが、深追いしすぎ小林小隊長は伏兵の弾丸に倒れた。本道では根本順助隊を軸として攻勢をかけたが、南部側の精鋭が挟撃の体制を取り、大勢は逆転されてしまった。二階堂鴻之進隊は本道隊を助けようと池内村まで進出したが、高場から打ち込まれ孤立していった。弘前藩の応援部隊である対馬寛左衛門隊は二階堂隊を助けようとしたが、これもかなわなかった。久保田側は次第に総崩れとなっていった。大館城城代の佐竹大和は大館城に引き、籠城を覚悟したが、根本順助に退城するように諫められ、午前8時前に城に火をかけて撤退した。南部兵の大館城一番乗りは午前9時前であった。南部藩の砲撃で破壊された大手門からは青木俊助等の昭武隊が、東門からは目付参謀太田練八郎等が人やぐらをくみ、同時に乱入した。楢山佐渡は米代川の伏兵に阻まれ、山王台の陣地に到着したのは午前11時頃であった。 佐竹大和は沼館街道を通り、保滝沢を越え山田村を経て本道に入り、綴子村で防戦をしようとした。しかし、追いついて来た兵は100名も足りない。そこでさらに、小繋村まで退き、荷上場村に本陣を置き難所として名高いきみまち阪を防衛拠点とした。 この日、早口村にいた十二所軍は応援の為に岩瀬村まで進出したが、落城と聞き引き上げた。また、津軽藩は3隊170名の増派を決定、前夜のうちに出発させていたが、街道は大館からの避難民が増えるばかりで進撃は不可能と判断し、大館城まで伝令を急行させた。しかし、大館城落城の情報が入ると、部隊を撤退させた。 大館を占領した南部兵は徹底的な焦土戦を展開、大館は猛火に包まれ、29軒を残して町は焼失した。楢山佐渡は、正午ごろに大館に入り、午後1時に大館の諸役を集め布告を行った。内容は慶応の年号を廃し、延寿元年と改め〔改元の件は『大館戊辰戦記』に記述があるが、これは伝聞であり、南部藩の国元でも改元の形跡はなく本当の話か疑問であるとする意見もある。『ほくろく戊辰戦記』〕、新領主南部利剛の思召により、今後3年間の租税を免じるというものであった。また、思召に逆く者があれば九族まで罪科に処するという内容も含まれていた。同じ内容は扇田村でも同時刻に布告された。占領地の諸道には南部領地の標木がいたるところに立てられた。 この日の久保田側の戦死者は28名、負傷者は19名であった。また、南部側の戦死者は2名、負傷者は2名であった。〔『鹿角市史』3巻下 p.564〕 23日には、久保田側の荷上場村の本陣にやっと部隊が集結し、夕刻頃には300名の将兵が集結した。残りの兵隊も24日にはほぼ集合し再配置を行った。 南部側は軍議をひらき、津軽藩を仲介として久保田藩との和平条約を結び、戦争を終結させようとした。23日目付役照井賢蔵を密かに碇ヶ関に派遣し、以前「同じ奥羽の藩が干戈を交えるのは好ましくない。万一の場合その周旋の労はおしまない」との密使があった津軽藩家老鳥谷森甚弥と連絡を取ろうとした。だが、鳥谷森は碇ヶ関に不在で和平交渉は失敗した。 24日大館北部の長走村の南部軍に、津軽の使者が使いを出した。津軽藩が陣馬村に滞陣する意向を伝えたものである。南部藩でも津軽藩の対馬隊が戦闘に参加していたことを把握しており、この申し込みを奇異に感じたが、結局はこの申し入れを受け入れた。ただ、このことは後々新政府側が津軽藩への疑惑を深める 原因ともなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大館城攻城戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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