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大舘 氏明(おおだち うじあき〔鎌倉・室町人名事典〕、嘉元3年(1303年)? - 興国元年/暦応3年9月3日(1340年9月24日)〔『群馬県史』第1巻〕もしくは興国3年/康元2年9月3日(1342年10月3日)〔『太平記』巻二十二「大館左馬助討死の事付けたり篠塚勇力の事」〕)は、南北朝時代の武士。大舘宗氏の子。舎弟の幸氏が新田義貞と同年代かそれより上の年代の生まれと考えられており、そのため氏明も義貞より年齢は上であると推定されている。 == 生涯 == 氏明は義貞の下で転戦し、播磨の赤松則村攻めなどに参戦する。元弘3年(1333年)の鎌倉攻めでは、父宗氏が戦死した後、その指揮を受け継いだ〔「太平記」における大舘氏と江田氏の考察〕。足利尊氏と京都の支配権を巡って義貞らが争った折には、奇襲を提案、これにより新田軍は勝利を収めている〔。 建武3年(1336年)3月4日には、病床の義貞に代わり同じ新田一族の江田行義とともに赤松円心が篭城する播磨を攻める〔『太平記』巻十六「西国蜂起官軍進発の事」〕。同年5月25日の湊川の戦いにおいて新田勢は和田岬(神戸市兵庫区)に布陣し、氏明は燈炉堂の南の浜に布陣したという〔『太平記』巻十六「兵庫海陸寄手の事」、「燈炉堂」は『山家集』に記される、平安後期に平清盛が和田岬に千人の持経者を集め万燈会を催したとされる堂。〕。氏明は江田行義とともに三千余騎を率い、足利方の二木・細川氏の軍勢六万と激突したという〔『太平記』巻十六「新田殿湊川合戦の事」〕。後醍醐天皇の京都還幸の折、氏明は越前へ下る義貞へ同道せず、江田行義らと共に還幸に供奉している。この時、後醍醐天皇らは義貞には京都へ赴くことを知らせなかったが、氏明と江田行義にはその旨を知らせ〔奥富・202頁〕、二人は随行したとされる。 その後、行義と共に、一時期足利軍へ投降する〔峰岸・136頁〕。しかし、後に伊予へ逃れて蜂起し、忽那義範らに檄を飛ばしたり、土居氏、得能氏と連携する〔などして四国における宮方として奔走、南朝から伊予国守護職に任命される〔『太平記』巻二十二「義助予州へ下向の事」〕。しかし伊予で共に戦っていた脇屋義助の病没後、南朝勢力は劣勢となり〔峰岸・137頁〕、北朝・幕府方から派遣された細川頼春の大軍に世田城を攻められ、自害して果てた〔『太平記』巻二十二「大館左馬助討死の事付けたり篠塚勇力の事」〕。 息子の義冬は北朝方の佐々木道誉の斡旋によって幕府へ出仕することとなり、子孫は政所の奉行人となった。 大正4年(1915年)、正四位を追贈された〔『群馬県史』第1巻〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大舘氏明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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