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大黒坊弁慶 : ウィキペディア日本語版
大黒坊弁慶[だいこくぼうべんけい]

大黒坊弁慶(だいこくぼうべんけい、1957年4月3日 - )は、日本男性プロレスラーである。本名は、小谷 一美(こたに かずみ)。和歌山県日高郡由良町〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4328&l=j〕出身、身長190cm、体重150kg。
以前は、(初代)のリングネームを名乗っていた。
かつて花籠部屋所属の元大相撲力士であった。大相撲時代の四股名花嵐(はなあらし)、最高位は東十両9枚目(1984年9月場所)、得意手は左四つ・寄り。当時の体格は身長187cm、体重158kg。
==来歴==
中学時代には柔道をやっていたが、南部高等学校進学後に相撲を始める。大会での活躍が目立ったことで相撲部屋から誘われるが、日本大学出身の教師に薦められ同大に進学した。名門と言われる日大相撲部で活躍し、大学4年時に全国学生相撲選手権大会で優勝したことをきっかけに大相撲に進むことを決意する。高校・大学の同期生には1980年度のアマチュア横綱・冨田忠典(故人…2009年度アマチュア横綱・冨田元輝の父)がいる。
1980年に花籠部屋に入門し、学生横綱の実績により1980年3月場所に幕下付出で初土俵を踏む。上背があり、まわしを取って引く相撲ではなかなかの強さを見せた。鳴り物入りではあったが幕下時代が長く、1984年3月場所に十両に昇進するも今ひとつ勝てず十両在位は3場所に終わった。1985年末に師匠の花籠親方が金銭トラブルのため廃業することが決まったため、本人も1985年11月場所限りに28歳で廃業した。花籠部屋が放駒部屋に接収されてからというもの大所帯の生活に慣れず、自身の相撲に集中できなかったという。
廃業後は、プロレス団体WARに登場したチームである相撲軍団覆面レスラー」(初代)として参加。1994年、WARの所属選手であった石川敬士(日大相撲部、花籠部屋の先輩でもある)がWARからの離脱と新団体東京プロレスの立ち上げを表明すると、同団体に参加。この際にリングネームを嵐から「ダンク・タニ」と改名する。
東京プロレスでは主要選手の一人として活躍する。1995年ザ・グレート・カブキの東京プロレス参戦と(ダンク・タニとの)タッグ結成が決定すると、リングネームを「大黒坊弁慶」に改名、これ以降はこのリングネームで活動している。このカブキと弁慶によるタッグチームは「幻僧戦士団」を名乗り、同団体において屈指の強さを誇った。これは、名レスラーカブキによって弁慶の潜在能力が引き出された事が大きい。
東京プロレス崩壊後は、新東京プロレス、IWA・JAPANに参戦。その後大日本プロレス所属として活動し同団体のヘビー級ベルトを長期保持するなど重鎮として一つの軸になる存在となった。
2012年に関節などの悪化による手術を行い以降は長期欠場していたが、2014年引退を表明した。なお欠場中から売店などにスタッフとしてついており、引退後も売店に登場する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大黒坊弁慶」の詳細全文を読む



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