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天野太郎[あまの たろう] 天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 1990年11月15日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学、東京芸術大学で教鞭をとりながら、吉原正、武藤章らと設計活動を行った。 ==生涯== 1918年広島県呉市生れ。第一早稲田高等学院を経て1942年、早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。卒業後に鹿島建設設計部に入社し、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。遠藤新の薫陶を受け、1952年に遠藤の師であるライトの下に遊学する。その他に、鹿島建設に顧問でいた吉田鉄郎の影響も受ける。1955年には工学院大学建築学科助教授となり、教育の傍ら吉原正、武藤章 (建築家)とともに設計活動を始める。1962年に、吉田五十八が退官した東京藝術大学に招聘され、教鞭をとりながらキャンパス計画を指揮する。1966年にパーキンソン病が発症し、1980年ごろには、入退院を繰り返すことになり、1990年に心不全を伴い死去。「音羽の家」や「新花屋敷ゴルフクラブ」に代表されるような初期の作品には、ライトの影響がみられるが、「武蔵嵐山カントリークラブ」の頃には、アルヴァ・アールトの影響が読み取れるながらも、模倣には終わらない天野らしさを感じさせるヒューマンでのびやかな建築を創作している。後期の作品では、東京芸術大学のキャンパス計画にみられるような、周辺の環境に呼応した空間を持つモダニズムのデザインにまで発展している。日本の伝統的な建築空間を評価して、生活や社会に即した建築が建てられる環境とどうあるべきかを考察し、戦後のモダニズムを昇華させようと努めた。また、天野研究室や天野吉原設計事務所から多くの建築家を輩出し、教育者としての側面ももっていた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天野太郎」の詳細全文を読む
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