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太田資康[おおた すけやす]
太田 資康(おおた すけやす)は、戦国時代初期の武将。摂津源氏の流れを汲む太田氏。太田道灌(資長)の嫡男。武蔵国江戸城城主。扇谷上杉家家臣。 == 生涯 == 文明17年(1485年)、江戸城の西側の平河天満宮で元服を行う。だが、この頃父と主君上杉定正の関係が不穏であった事から、定正と対立する古河公方足利成氏に人質の名目で預けられた。だが、翌年に父が定正に謀殺され、資康は江戸城に戻って家督を継ぐが、定正の追っ手に攻められて甲斐国に逃れた(江戸城の乱)。長享2年(1488年)、定正と山内上杉家の上杉顕定の間で長享の乱と呼ばれる内紛が勃発すると、同じく定正に追われていた三浦高救(定正の実兄)とともに顕定軍に加わった。これが縁で後に高救の孫(義同の娘)を妻とした。この頃、生前の道灌と親しい万里集九が資康の見舞いに訪れて句会を開いている。 だが、明応3年(1494年)に定正が事故死し、舅の三浦義同が相模三浦氏の家督を奪還すると、資康も扇谷上杉家への復帰が許されて新当主である上杉朝良に仕える様になった。初め菅谷城(現在の埼玉県嵐山町)に居たが、長享の乱が集結した永正2年(1505年)頃に江戸城へと帰還したという。 永正10年(1513年)、舅の三浦義同が伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められると援軍に駆けつけるが、相模国三浦郡にて早雲の軍勢に敗れ戦死したとされる。一説には資康の勢力を疎ましく感じていた主君・上杉朝良によって謀殺されたとも言われており、その年次も明応7年(1498年)・永正2年(1505年)などの異説が存在する。 墓は横須賀市大明寺にある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田資康」の詳細全文を読む
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