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太田 資愛(おおた すけよし、元文4年(1739年) - 文化2年2月17日(1805年3月17日))は、江戸時代中期の大名。遠江掛川藩第2代藩主。江戸幕府の老中。掛川藩太田家6代。 == 生涯 == 先代藩主太田資俊の次男。正室は牧野忠利の娘。子に太田資武(長男)、太田資順(次男)、太田資言(四男)、娘(土屋泰直正室)、娘(木下俊懋正室)。官位:従四位下、摂津守、備中守、侍従。 幕府では、奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中を歴任した。学者松崎慊堂を藩の顧問として登用する。文化2年(1805年)2月17日、67歳で死去。墓所:静岡県三島市玉沢の妙法華寺。後を次男の太田資順が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田資愛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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