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太田輝資[おおた てるすけ] 太田 輝資(おおた てるすけ、?-慶長8年4月17日(1603年5月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏の家臣。太田資高の子。受領名は右衛門佐、後に備中守。 初め、兄の太田康資とともに武蔵国江戸城にいたが、兄が同族の岩付城主太田資正とともに里見氏に通じると、これに従わずに資正の嫡男・太田氏資と結んでこれを放逐した。以後、氏資の配下となるが、氏資が三船山合戦にて戦死した後は北条氏からの養子である太田源五郎・氏房兄弟に仕えた。右衛門佐は北条氏光と重なるために官途名を太田氏ゆかりの備中守に改めたが、備中守は北条氏ゆかりの名前で同氏五代の家中を通じてこの名乗りを許されたのは、輝資が唯一の例であった〔備中守と北条氏の関係は長く不明であったが、北条早雲の実父が伊勢備中守であることが確定したため、北条氏の先祖と重なるこの官途名を名乗ることが避けられたと考えられるようになった。輝資は氏光に名乗りを譲る形になったので特に認められたとみられている(木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年))。〕。 甲州攻めにおいては、上野国方面から武田氏の所領である信濃国への進撃を命じられたが、進撃に手間取っているうちに、逆に織田氏の滝川一益による上野進出を許してしまい、北条氏政の怒りを買った。 小田原征伐後に所領を失い、関東地方の領主となった徳川家康より仕官の誘いを受けるが、これに応じて旧領である武蔵国谷古田(現在の埼玉県川口市)に退いて隠遁生活を送っていたという。 == 脚注 == 〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田輝資」の詳細全文を読む
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