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太田 雄貴(おおた ゆうき、1985年11月25日 - )は、滋賀県大津市出身の、日本のフェンシング選手。種目はフルーレ。同志社大学商学部卒、森永製菓所属。マネジメント契約先はスポーツビズ。 右利き。キレのあるアタックを特徴とする。 == 来歴 == 幼少時代は、滋賀県大津市比叡平にて過ごす。 高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学と共に全国大会を連覇している。平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝した(2009年3月現在最年少記録)。 2004年1月から岡崎直人、山口徹らとアテネオリンピック出場権をかけて多くの国際大会に出場した。3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出して出場権を獲得。アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位となった。 2006年、カタール・ドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮()を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄()を破って優勝。フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得した。 2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンク()と対戦し9 - 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得した〔サンケイスポーツ 2008年8月14日5時3分配信、同日閲覧。〕。また、太田が銀メダルを獲得するまでは、フェンシングは1896年の第1回アテネ五輪で正式競技に採用された8競技の中で、日本が唯一五輪メダルを獲得していない競技であった。 銀メダル獲得直後のインタビューで「就職先募集中」と語っており〔、大学院に進むことも示唆していたが、複数のオファーの中から、高校時代からサポートを受けていた森永製菓に2008年11月1日入社した〔森永製菓株式会社 ニュースリリース 〕〔「太田“ニート卒業”入社会見で号泣」 2008年10月24日 デイリースポーツ〕。ちなみに森永製菓での所属は「健康事業本部ウイダー事業部マーケティング担当」〔今日は - 太田雄貴オフィシャルブログ・2009年3月13日〕。 2009年4月より、森永製菓所属のままフランスのフェンシングのクラブチーム「エクス=アン=プロヴァンス」に期限付きで在籍〔仏クラブ入り「夢だった」=フェンシングの太田が抱負 - 時事ドットコム・2009年3月31日〕。渡仏2戦目となる4月5日の「ルブニュー・チャレンジ」で同チーム加入後初優勝。決勝では北京五輪で敗れたクライブリンクを破っての優勝だった〔太田、渡仏2戦目で優勝=五輪金メダリストに雪辱-フェンシング - 時事ドットコム・2009年4月6日〕。5月、日本選手で初めて国際フェンシング連盟ランキングの1位となる。同年6月にフェンシング・ワールドカップのハバナ(キューバ)大会で5年ぶりの勝利をあげた〔太田がW杯で5年ぶり優勝 フェンシング男子フルーレ 共同通信 2009年6月6日〕。 2012年、ロンドンオリンピックの初戦(2回戦)でいきなりベンヤミン・クライブリンクと再戦。15-5で勝利し、前回の雪辱を果たすが、3回戦でアンドレア・カッサーラに延長の末14-15で敗れた。男子フルーレ団体戦(太田、千田健太、三宅諒、淡路卓)では準々決勝でランキング2位の中国に45-30で勝利。準決勝では3位のドイツと対戦、最終ラウンドドイツ2点リードで迎えた残り10秒から同点に追いつき、延長の末41-40で勝利。決勝ではランキング1位のイタリアに39-45の善戦の上敗れるも、日本史上初となる団体銀メダル獲得となった。 2012年12月19日、フェンシング普及の為、「SUPER FENCING」を立ち上げた。 2014年9月に開幕した仁川アジア大会では日本チームにとって1974年テヘランアジア大会以来となる団体フルーレ優勝に貢献した。 2015年7月16日、モスクワで行われたフェンシング世界選手権の男子フルーレ個人でアレクサンダー・マシアラス()を15-10で破り初優勝を果たし、2016年リオオリンピック出場権を獲得した。〔-太田雄貴、初の金メダル フェンシング世界選手権 朝日新聞 2015年7月17日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田雄貴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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