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太田頼基 : ウィキペディア日本語版
太田頼基[おおだ よりもと]

太田 頼基(おおだ よりもと、生没年未詳)は、平安時代末期の武士大和源氏の系譜を引く所雑色頼資の子で、兄弟に頼康がある。官位については不明。号は太田太郎。
== 人物 ==
摂津国島下郡太田(現在の大阪府茨木市太田付近)に所領を持つ武士であり、太田城の築城者であるとされる。頼基は源平争乱期の人物であり、『玉葉』の文治元年(1185年10月30日の条によると、源頼朝と対立し翌日西国に向けて都落ちすることが決まった義経行家らの一党に対し、「城郭」を構えて牽制する姿勢をみせており、更には義経の命を受け船の手配をしていた義経の所従紀伊権守兼資を討ったとあるほか、翌月3日には都を落ちた義経らと摂津河尻付近で合戦し義経らが勝利したとある。
また、『平家物語』では、都落ちした義経の一党が自分の所領の近くを通り西海に抜けようとしていることを知った頼基が、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と言って鎌倉に対する忠誠を示すと、少数の手勢を率いて摂津河原津で義経一党に合戦(河原津の合戦)を挑むという勇敢な武士として描かれている。
系譜については、多田源氏摂津源氏)の武士であるとされている場合があるが、厳密には源満仲の次男頼親に始まる系統である。頼親は大和国を地盤とした大和源氏の祖とされるが、大和を地盤とする以前は摂津国内に多くの所領を有していた事が確認されており、後代、頼親の子孫には頼基のほかにも摂津に所領を持つ者が散見される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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