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太閤検地[たいこうけんち] 太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。 == 概要 == 領主が自領内に課税するにあたり、その基礎資料として自領内の地勢を把握することは非常に重要ではあったが、家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため実施は難しいとされていた。しかし北条早雲に始まる戦国大名の出現で、自らの軍事力と裁判権を背景に独自の領地高権を行使することを可能とした。この行使の一例が検地であった。 織田信長も検地を実施していた(これを信長検地とよぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる〔領地の収穫高を厳密に調べるよう家臣に命じた書状で、羽柴姓を名乗る7月以前の元亀4年(1573年)5月の日付が見える。〕。天正9年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地とよぶ。 この集大成として関白を辞して太閤となった秀吉は、将軍に上納されて叡覧に備用される「御前帳」になぞらえ、検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して徴収させた。これを「天正御前帳」という。後述するように太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつのみでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、その意義は大きい。 後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太閤検地」の詳細全文を読む
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