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奇皇后[きこうごう]
奇皇后(きこうごう、1315年頃 - 1369年もしくは1370年以降)は、14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后。モンゴル名を表した漢字表記は完者忽都(Ölǰei Qutuq オルジェイ・クトク)皇后。諡号は普賢菩薩熟成皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生んだ。 モンゴル帝国の高麗征服以後、高麗王室は忠烈王が世子時代にモンゴル皇帝クビライのもとで近衛集団であるケシクに入侍し、さらに高麗国王として退下・即位するとその公主の降嫁を受ける事が習わしとなった。以後、高麗王室は元朝の皇帝家であるクビライ王家を宗主とする「高麗駙馬王家」の称号を許され、元朝を支える姻族のひとつとなった。これに伴いモンゴル皇帝や皇族の公主が歴代の高麗王に降嫁していた高麗王は元の征東行省の長官かつ、元帝の女婿という独自の国際的地位を確保していた〔武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年、109頁、脚注(1)〕。高麗王家とモンゴル皇帝家との姻戚関係を結ぶ事で、それまでの武臣政権時代のような有力家臣集団から高麗王家への政治的干渉を解除する事にひとまず成功した。 こうして高麗王国内からケシク要員や官吏等のため高麗王族や貴族たちが元朝宮廷に出仕する者が増加したが、同時に元朝中央での動乱が高麗王室に直接影響を及ぼすようになり、忠宣王、忠粛王、忠恵王のように元朝宮廷での争乱の影響で後援する皇族の消長に伴って王位が改廃される事態が続くようになった〔森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家 : 高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史學雜誌』 110(2)、234-263頁、2001年2月〕。このような13世紀後半から14世紀前半にかけての元朝宮廷・高麗政権間の人的・政治的関係の中で出現したのが、奇皇后、「完者忽都皇后奇氏」という高麗人元室皇后である。 == 生涯 ==
=== 高麗貢女 === もともと高麗人・奇子敖の娘で、高麗貢女として元廷に献上された女性である。宮女として順帝トゴン・テムル(在位1333年~1368年)の食膳の給仕などをしていたが、次第に順帝の寵愛を得たものである。順帝には最初キプチャク族出身のダナシリ皇后がいて、奇氏は嫉妬にかられたダナシリからたびたび嫌がらせを受けたが、うまい具合に1335年ダナシリの兄が謀反罪で捕らえられ、ダナシリも謀反に加担したとして殺された。その後1337年順帝には武宗カイシャンの皇后であった真哥皇后の姪で毓徳王ボロト・テムル(孛羅帖木兒)の娘であったコンギラト部出身のバヤンクトゥ(伯顔忽都)皇后が冊立され、奇氏は次皇后となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奇皇后」の詳細全文を読む
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