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奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 1977年11月26日)は、日本の映画俳優。 == 来歴・人物 == 1896年(明治29年)11月30日、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)に鉱山師の父・真平と母・とめの長男として生まれる〔『日本映画俳優全集・男優篇』p.431〕。 1914年(大正3年)に秋田県立大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業後、小坂鉱山で3年間の勤務を経て上京し、農商務省工業試験所に勤務した〔〔『映画街・演劇街 秋田県興行史』p.72〕。 1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名社の設立にあたって行った男女俳優募集に応募、240人の応募者の中から男性120人・女性5人の合格者の一人として選ばれ、同年4月1日に小山内薫主宰の松竹キネマ俳優学校に入学〔。同期生に伊藤大輔、鈴木伝明、澤村春子、岡田宗太郎らがいる。6ヶ月後に課程を修了し、松竹蒲田撮影所に入社。翌1921年(大正10年)に野村芳亭監督の『夕刊売』で映画デビューした〔〔新撰 芸能人物事典 明治~平成「奈良真養」の項 〕。 1923年(大正11年)1月、柳さく子、梅村蓉子、河村黎吉らとともに準幹部に昇格〔『松竹百十年史』p.373〕。同年公開の池田義信監督『現代の女性』で栗島すみ子と共演、以降島津保次郎監督『人肉の市』、牛原虚彦監督『大地は怒る』などの作品で大役を演じ、1924年(大正13年)1月には幹部に昇格した〔〔〔『松竹七十年史』p.253〕。同年公開の『永遠の母』以来、池田監督・栗島主演の作品でしばしば栗島の相手役を務め、『嘆きの孔雀』『悲しき恋の幻想』などの作品がある〔。また、柳さく子、五月信子、川田芳子、英百合子、田中絹代、松井千枝子ら蒲田の看板女優たちと多く共演し、意志的で端正な顔立ちの二枚目俳優として注目を浴びた〔〔。 その後も島津監督の『上陸第一歩』、小津安二郎監督の『美人哀愁』、成瀬巳喜男監督の『生さぬ仲』などに主演格で出演するが、1932年(昭和7年)以降は脇役出演が多くなる。しかし手堅い演技で蒲田から大船に撮影所が移ってからも中心的俳優としてあり続けた〔〔。 1934年(昭和9年)3月16日、麻雀クラブ「天鳳」、「千山閣」で賭け麻雀をしていたとして広津和郎、東郷青児らが検挙される事件が発生し、翌日の午前、筑波雪子、飯田蝶子らが逮捕され、同日午後に奈良も検挙された。 戦後は吉村公三郎監督の『安城家の舞踏会』、日映演製作の『暴力の街』などに脇役出演する一方、松竹大船撮影所の演技課長を務め〔、1956年(昭和31年)の定年退職後は大船の契約俳優として数本の映画に出演した〔。1962年(昭和37年)、羽仁進監督『充たされた生活』での老優役を最後に映画界から引退。 趣味の鎌倉彫は師範の腕前だったという〔。 1977年(昭和52年)11月26日、胃がんのため死去。80歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奈良真養」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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