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奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年 - 2013年)は、日本の外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。 == 人物 == 大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。 1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った〔ジャパンタイムズ2007年3/月22日〕。 1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。のちにこの公邸は、エバンストン市長から、歴史的にも芸術的文化的にも重要な建築物としてランドマークに指定された〔社団法人霞関会会報平成18年1月号、同昭和57年10月〕。 1975年の第7回日加閣僚委員会共同声明では、駐カナダ大使として、宮澤喜一外務大臣、福田赳夫経済企画庁長官、大平正芳大蔵大臣、河本敏夫通商産業大臣とともに、日本側代表を務めた〔日本政府か関与した重要共同コミュニケ及びその他の外交文書 外務省。〕。 1939年に日米学生会議にともに参加して以来、宮澤喜一(元総理大臣)や苫米地俊博(元三菱商事副社長、苫米地英人の伯父)らと親しくなり、毎月のようにゴルフをする仲になった〔朝日新聞1991年10月28日、AERA1991年10月29日、朝日新聞1992年04月25日〕。宮澤が総理大臣在任中の1991年11月から1993年8月までの首相動静からも、宮澤が総理大臣に就任した直後の1991年11月12日に宮澤及び宮澤の弟の宮澤泰(元駐西ドイツ大使)とともに夕食を食べているほか、1991年12月、1992年1月(ほかに平岩外四)、3月(ほかに吉國二郎)、4月18日、4月26日、9月、11月、12月、1月、3月13日、3月21日、5月、7月と頻繁に宮澤とゴルフをしていることがうかがえる〔首相動静・1991-1993年〕。この日米学生会議による宮澤、奈良、苫米地らの交友については、のちに城山三郎が講談社から『友情 力あり』として出版した〔城山三郎『友情 力あり』(講談社文庫,1993年)〕。 2013年9月13日肺炎のため死去〔「奈良靖彦氏が死去 元駐カナダ大使 」 日本経済新聞2013/9/13〕。従三位。奈良久弥(元三菱銀行副頭取、元連合三田会副会長)は弟〔朝日新聞1984年11月21日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奈良靖彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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