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奉幣使 : ウィキペディア日本語版
奉幣[ほうべい, ほうへい]

奉幣(ほうべい、ほうへい)とは、天皇により神社山陵などに幣帛を奉献することである。天皇が直接親拝して幣帛を奉ることもあるが、天皇の使い・勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、この使いの者のことを奉幣使という。
延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を記載したものであり、ここには3132座が記載されている。
奉幣使には五位以上で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた。また、神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、伊勢神宮には王氏(白川家)、宇佐神宮には和気氏春日大社には藤原氏の者が遣わされる決まりであった。通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した。
中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使(後述の日光例幣使と区別して伊勢例幣使とも)という。また、天皇の即位大嘗祭元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を由奉幣(よしのほうべい)という。

==江戸時代==
朝廷の衰微とともに次第に縮小・形骸化され、応仁の乱以降は伊勢神宮への奉幣を除いて行われなくなった。17世紀半ばから江戸幕府が朝廷の祭儀を重んじるようになり、延享元年(1744年)、約300年ぶりに二十二社の上七社への奉幣が復興された。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は往路は東海道・江戸を経由せず、中山道倉賀野宿例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。帰路は日光街道で南下し江戸を経由して東海道にはいり帰京するのが慣習であったが、安永5年(1776年)と天保14年(1843年)には帰路も中山道を使っている。また、明治初期の迅速測図では日光西街道(壬生道)が「旧例幣使街道」と呼ばれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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