|
契丹(きったん、キタン、キタイ、英語: 、ピンイン: Qìdān)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。 ==歴史== ===契丹の起源と黎明期=== 『遼史』に記される伝承によれば〔契丹の動静が描かれた現存する最古の文献として『魏書』があるが、さらに早く書かれた記録を遼寧省義県城の西北にある万仏堂岩窟中の、北魏「景明三年五月九日造」の銘のある刻文に見ることができる。記録の内容そのものは『魏書』が古い年代に遡る。〕、土河(老哈河)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、潢河(西拉木伦河)西岸の平地松林から青い牛の牛車に乗った天女が、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子供を設け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗〔遼太祖の弟、耶律羽之の墓には、奇首可汗の子である檀石槐已来、代々君長である「其先宗分估首,派出石槐,歴代漢魏隋唐已来,世為君長」の一文がある〕の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。 契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になる考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、ともに4世紀半ばに前燕の慕容皝に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。 5世紀に至って人口が増え、北魏の北方を侵すようになった。5世紀半ばから、北魏に朝貢し、交市を行うようになった。479年、柔然と組んだ高句麗の侵略を怖れ、北魏に来降し、白狼水(今の大凌河)の東岸一帯に移り住んだ。この時の人口は、1万余人であったと伝えられる。6世紀に入っても、北魏への朝貢は絶えなかった。553年には、北斉の国境を侵して文宣帝に敗北し、部族の大部分が捕らえられて、諸州に分置される。残った部族もまた、突厥に攻められ、高句麗を頼っていった。 この時代の契丹は、悉万丹・阿大何・伏弗郁・羽陵・日連・匹薭黎・吐六于・羽真侯の古八部から構成され、常には連盟していなかったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「契丹」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Khitan people 」があります。 スポンサード リンク
|