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奚和朔奴(けい かさくど、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人。奚六部長。字は籌寧。 == 経歴 == 奚の可汗の後裔にあたる。保寧年間、奚六部長となった。 統和初年、睿智皇太后が称制すると、耶律休哥が南方の軍事を統轄し、和朔奴はその下で南面行軍副部署となった。4年(986年)、北宋の曹彬・米信らが燕雲十六州奪回のために進攻してくると、和朔奴は耶律休哥の下で宋軍を燕南で撃破した。凱旋した後、李浩を冤罪で死にいたらしめた責任を問われたが、聖宗は和朔奴の功績のため罪を許した。6年(988年)冬、南征に参加し、奚六部の軍を率いて別道から進撃し、宋軍を狼山で撃破した。 8年(990年)、奚六部の常袞の職掌を旧制に戻すよう上表して、聖宗に容れられた。 13年(995年)秋、都部署に転じ、兀惹を攻撃した。鉄驪に駐屯して馬を肥えさせること数カ月、兀惹城に進軍した。拙速な攻撃を仕掛けて降伏者を許さなかったため、城中の兀惹軍は団結して死戦した。和朔奴は陥落させることができないと知ると、副部署の蕭恒徳の提案に従って東南に向かい、高麗の北境をめぐって帰還した。糧食の補給が続かず、多くの兵馬を死傷させた。14年(996年)、封爵を下げられた。 子の奚烏也は、郎君班詳穏となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奚和朔奴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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