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奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。 == 経歴 == === 服従と離反 === 三河国作手(つくで)の有力国人・奥平定能の長男。母は牧野成種の娘。 奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江掛川城攻めに加わった。しかし元亀年間(1570年 - 1573年)には武田信玄の三河への侵入を契機に武田氏に属した。 一方、元亀4年(1573年)ごろ家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考え、奥平氏に使者を送ったが、奥平貞能の返答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は織田信長に相談、信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。 家康は信長の意見を入れ、貞能に # 亀姫と貞昌の婚約 # 領地加増 # 貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させる を提示した。 元亀4年6月22日、貞能は家康に # 武田信玄の死は確実なこと # 貞能・貞昌親子の徳川帰参の意向 を伝え、しばらくして再び徳川氏の家臣となった。貞能・貞昌親子の徳川帰参を受け、天正元年(1573年)9月21日に武田勝頼は奥平氏が差し出していた人質3人を処刑した。 天正3年(1575年)、武田氏に備え新城城を築城したという〔『城郭と城下町 東海』 - 小学館発行 - 185ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥平信昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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