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奥平昌服[おくだいらあきらふく]
奥平 昌服(おくだいら まさもと)は、豊前中津藩の第8代藩主。中津藩奥平家12代。 == 生涯 == 天保元年(1830年)12月25日、第6代藩主・奥平昌暢の次男として江戸で生まれる。父が天保3年(1832年)に死去したときは幼少のために家督を継げなかった。天保6年(1835年)4月、第7代藩主となった叔父・昌猷の養子となり、天保13年(1842年)に昌猷が死去すると、家督を継いだ。弘化2年(1845年)12月16日、従五位下・大膳大夫に叙位・任官する。 嘉永6年(1853年)の黒船来航では鎖国攘夷を唱え、藩政の実権を握っていた隠居の祖父・昌高の開国論と対立している。安政2年(1855年)に昌高が死去すると、実権は家老の奥平壱岐に握られたが、間もなく壱岐を更迭して実権を奪い、砲台建設などの藩政改革に着手した。 男系の血筋は島津氏であったが(昌高は薩摩藩島津家出身)、奥平氏は譜代の名門であったことから、昌服は佐幕派として長州征討にも参加している。しかし慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、新政府軍に味方することを表明して会津藩まで出兵した。4ヵ月後の5月6日に病気を理由として、家督を養子の昌邁に譲って隠居した。 明治4年(1871年)に東京に移った。明治18年(1885年)4月20日に正四位に叙され、その後も明治23年(1890年)6月18日に従三位、明治29年(1896年)6月20日に正三位に叙された。明治34年(1901年)2月27日に死去した。享年72。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥平昌服」の詳細全文を読む
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