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奥平 昌高(おくだいら まさたか)は、豊前中津藩第5代藩主。中津藩奥平家9代。「蘭癖大名」の一人として知られている。 == 生涯 == 天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。母は側室・お登勢の方(慈光院)(ただし実母は直心影流剣術剣客鈴木藤賢の娘と伝わる)。 一時期長州萩藩主毛利治親の養子であったという説もあるが、天明6年(1786年)、急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。昌男は生前、重豪の娘と婚約もしていた。昌高も昌男の娘婿という形で養子に迎えられている。 実父も養家先も蘭学好きとなれば、昌高が蘭学好きにならないわけがなく、手始めに中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ部屋」なる物を造り、そこに出島で買い集めさせたオランダ製品を陳列していた。しかし次第に物を買い集めるだけでは飽き足らなくなり、オランダ語を勉強するようになる。また、歴代のオランダ商館長(カピタン)と親交を結ぶようになり、ヘンドリック・ズーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっている。後にはオランダ語の会話に不自由せず、さらに商館長と詩のやりとりまでしていたという。 特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)3月4日(新暦4月10日)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。シーボルトと気兼ねなく対面するために、昌高は文政9年(1826年)に次男の昌暢に家督を譲って隠居している。なおこの間、幕府においては、文化14年(1817年)3月には溜詰格に、さらに翌月には溜間詰本格に列し、また侍従に叙せられた。 昌高は養祖父の昌鹿より、藩医であった前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。 安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥平昌高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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