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奥平昌鹿[おくだいら まさしか] 奥平 昌鹿(おくだいら まさしか / まさか、延享元年7月15日(1744年8月22日)- 安永9年7月24日(1780年8月24日)は、江戸時代中・後期の大名・国学者。豊前国中津藩第3代藩主。中津藩奥平家7代。 第2代藩主・奥平昌敦の長男。母は牧野貞通の娘・菊子。正室は阿部正允の娘。子に奥平昌男(長男)、娘(酒井忠進正室)。幼名は熊太郎、後に昌邦。官位は従五位下、大膳大夫。 == 生涯 == 賀茂真淵に国学を学ぶ。宝暦8年(1758年)、父・昌敦の死去後、15歳で家督を継ぐ。「訴平賦均録」という法令集を編纂して、藩政に尽力した。また、家臣の儒学者藤田敬所らを政治批判させ、それを藩政改革に取り入れ、質素倹約を励行させた。 蘭学者の前野良沢を保護し、蘭学を奨励した。良沢の号「蘭化」は、昌鹿が良沢を「蘭学の化け物」と称したことに由来する。 1780年(安永9年)に死去し、跡を長男の昌男が継いだ。墓所は東京都品川の東海寺。
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