翻訳と辞書 |
奥平貞幹[おくだいら さだもと] 奥平 貞幹(おくだいら さだもと、享保19年11月27日(1720年1月6日) - 安永3年1月8日(1774年2月18日))は、伊予松山藩家老、奥平藤左衛門家5代当主。 父は奥平貞継。子は奥平貞教。通称藤五郎、藤左衛門。 == 生涯 == 享保4年(1720年)11月27日松山で生まれる。享保17年(1732年)享保の大飢饉における藩政の不始末の責任を問われ、父貞継が蟄居を命じられる。享保19年(1734年)新知1500石を賜り、大名分嫡子並とされる。享保21年(1736年)蟄居処分を解かれ、父貞継が大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月父貞継の政敵であった家老奥平貞国が、久万山騒動(久万山地域の領民が大挙して大洲藩に逃散する事件)の責任を負わされて流罪となる。同年12月家老、組頭となり与力を預かる。寛保2年(1742年)4月大坂表より、父貞継が帰藩し家老に復帰。宝暦8年(1758年)軍用方を兼任。宝暦10年(1760年)500石の加増を受ける。宝暦13年(1763年)藩主松平定功の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家治に拝謁。明和2年(1765年)藩主松平定静の家督相続の御礼言上の際に、将軍家治に拝謁する。 安永2年(1773年)父の隠居によりその知行3500石のうち1500石を相続し、知行3500石となる。 安永3年(1774年)1月8日死去。享年56。家督は嫡男貞教が相続した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥平貞幹」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|