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女子プロレス(じょしプロレス)は、女性によって行われるプロレス全般を指す。闘う人を女子プロレスラー(じょしプロレスラー)と呼ぶ。 == 歴史 == アメリカでは、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性によるプロレス興行の中で試合を行っていたと言われている。 日本においては、戦後間も無い1948年2月、東京都三鷹市の小さな道場にて進駐軍相手の興行としてスタートし、歴史的には力道山がプロレスを始めるよりも前に存在している。 ただし、その当時の女子プロレスは、主な会場が芝居小屋やキャバレーやストリップ劇場等で、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合う(ガーター・マッチ)と言った、お色気を強調したものであり、現在行われている女子プロレスとはかなり違うため(現在に当てはめると、キャットファイトに近い)、これを「プロレス」と呼ぶべきかは意見の分かれる所である。 なお、上記を女子プロレスと定義した場合、日本人最初の女子プロレスラーはパン猪狩、ショパン猪狩の妹である、猪狩定子だと言われている(猪狩定子は全日本女子プロレスの記念興行で、「日本人最初の女子プロレスラー」とされることから、女子プロレスの殿堂入りとして表彰されている)。 この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、1950年に警視庁から禁止令を出され一時姿を消した後、1954年11月19日、在日米軍慰問のために訪れた世界チャンピオンのミルドレッド・バーク、メイ・ヤングら当時の全米トップレスラー達を招いて蔵前国技館を始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから、現在のプロレスに近い形が出来上がって行くことになる〔『女子プロレス事件File2』P45〕。1955年9月10日・11日、両国メモリアルホールで「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」が開催され、猪狩貞子・田山勝美組が女子タッグ初代王者となる。また、記録映画として「赤い激斗」が制作された。 これを機にいくつもの団体が乱立したものの、これらは日本女子プロレスにまとめられ、最終的には現在の興行形態を作った全日本女子プロレスが女子プロレス団体として勝ち残り、後にビューティ・ペア(ジャッキー佐藤、マキ上田)の登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降もクラッシュギャルズ(長与千種、ライオネス飛鳥)などスター女子レスラーは女性人気を得ることとなった。 1990年代に入り、ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションと提携した全日本女子が選手・試合を提供したことで、男性のプロレスファンから注目を集め、FMW女子部と全日本女子の対抗戦が契機となり、全日本女子プロレスを中心に団体対抗戦が東京ドームなど大会場で行われるほどの人気を得た。クラッシュギャルズ以来の女子プロレスブームが起こり、女子プロレス単体でゲームソフトが発売されるほどだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「女子プロレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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